郤正(げきせい) ※あざなは令先(れいせん)

【姓名】 郤正(げきせい) 【あざな】 令先(れいせん)

【原籍】 河南郡(かなんぐん)偃師県(えんしけん)

【生没】 ?~278年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第091回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・郤正伝』あり。

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劉禅(りゅうぜん)の降伏後、洛陽(らくよう)へ随行したひとり

父は郤揖(げきしゅう)だが、母は不詳。郤倹(げきけん)は祖父にあたる。

郤正は、もとの名を郤纂(げきさん)といった。祖父の郤倹は、霊帝(れいてい。在位168~189年)の末年に益州刺史(えきしゅうしし)を務めたが、188年、黄巾賊(こうきんぞく)の馬相(ばしょう)に殺害される。

そのころ天下が大いに乱れたため、父の郤揖は蜀に留まり、後に将軍の孟達(もうたつ)の下で営都督(えいととく)を務めた。

220年、孟達が軍勢を引き連れて魏(ぎ)の曹丕(そうひ)に降ると、郤揖もこれに随行して中書令史(ちゅうしょれいし)に任ぜられた。

そのため郤正は若くして父と別れることになり、母の再婚後はひとりで暮らす。だが、貧乏に甘んじながらも学問を好み、広く古典を通読したという。

郤正は20歳にして巧みな文章を書いたので、初め秘書吏(ひしょり)となり、秘書令史、秘書郎(ひしょろう)、秘書令(ひしょれい)と昇進を重ねた。

郤正は栄誉や利益にこだわらず、もっぱら文学に意を注ぎ、司馬相如(しばしょうじょ)・王褒(おうほう)・揚雄(ようゆう)・班固(はんこ)・傅毅(ふき)・張衡(ちょうこう)・蔡邕(さいよう)らの残した文章や賦(ふ)をはじめ、当世の優れた書簡や論文に至るまで、益州にあるものの研究や考察に努め、それらほぼすべてに目を通した。

郤正は宮中で働くようになってから30年にわたり、宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)と屋敷が隣り合っていた。

黄皓は卑しい身分から出世した者で、やがて蜀の実権を握るまでになったが、郤正は彼に気に入られもせず、憎まれもしなかった。

そのため郤正は、600石(せき)を越える官位に昇ることはなかったものの、黄皓に讒言(ざんげん)されることもなかった。

また郤正は、儒者の先人たちの規範に沿う形で自分の考えを著し、「釈譏(しゃくき)」と題する。その形式は崔駰(さいいん)の『達旨(たっし)』を継承したものだった。

263年、劉禅は譙周(しょうしゅう)の意見に従い、使者を遣って魏の鄧艾(とうがい)に降伏を申し入れたが、このときの文章は郤正が書いたという。

翌264年、魏の鍾会(しょうかい)が成都(せいと)で反乱を起こす。

劉禅は、魏都の洛陽へ向けてあわただしく出発したが、蜀の大臣の中に随行する者はおらず、郤正と殿中督(でんちゅうとく)の張通(ちょうとう)だけが、妻子を捨てて付き従う。

郤正の適切な補佐により、劉禅は礼を欠く振る舞いをせずに済んだ。そこで劉禅は嘆息し、彼のことを認めるのが遅かったと悔やんだ。ほどなく郤正を評価する声が上がり、関内侯(かんだいこう)に封ぜられる。

郤正は、晋(しん)の泰始(たいし)年間(265~274年)に安陽県令(あんようけんれい)に任ぜられ、272年には巴西太守(はせいたいしゅ)に昇進。そして278年に死去したが、詩・論・賦などの著作が100編近くあったという。

管理人「かぶらがわ」より

若いころから苦労を重ねた郤正ですけど、彼の生き方には筋が通っていて、すがすがしさを感じました。

人が失敗するときに多いのは、栄誉や利益へのこだわりが強すぎるケースではないでしょうか? 黙々と何かに打ち込んでいると、必然的に評価されることもあるのですね。

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