満偉(まんい) ※あざなは公衡(こうこう)

【姓名】 満偉(まんい) 【あざな】 公衡(こうこう)

【原籍】 山陽郡(さんようぐん)昌邑県(しょうゆうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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司馬昭(しばしょう)の恨みを買い、息子に連座して官職を失う

父は満寵(まんちょう)だが、母は不詳。弟がいたことがうかがえ、司馬懿(しばい)の息子の司馬幹(しばかん)に嫁いだ妹もいた。満長武(まんちょうぶ)という息子がいた。

242年、満偉は満寵が死去したため跡を継ぎ、昌邑侯に封ぜられる。彼は人品の良さで名を知られたといい、官位は衛尉(えいい)まで昇った。

257年、寿春(じゅしゅん)の役(諸葛誕〈しょかつたん〉討伐)の際、満偉は大将軍(だいしょうぐん)の司馬昭に付き従って許(きょ)まで行ったが、病気のためこの地に留まる。

息子の満長武は司馬昭とともに進軍したものの、途中で病気の父を看病したいとして帰還を願い出た。

結局、満長武は戦役が終わってから帰ったが、司馬昭は心中で(従軍を拒もうとした)彼ら父子を恨む。

260年、曹髦(そうぼう)が司馬昭の打倒に立ち上がった際、大将軍掾(だいしょうぐんえん)の満長武は閶闔(しょうこう。晋国〈しんこく〉の宮門)の掖門(えきもん。両側の小門)を守っていた。

そこへ司馬幹がやってくると、満長武は東掖門(とうえきもん)から入るようにと伝えて通さない。

参軍(さんぐん)の王羨(おうせん)も同じく通過を拒まれたが、後で司馬昭の側近を通じ、満長武が門を遮断した件を追及すべきだと上言する。

司馬昭は満長武を逮捕して尋問したうえ、杖で打ち殺す。さらに父の満偉を免職とし、平民に貶(おと)した。

その後の満偉については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・満寵伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』によるもの。

本当に病気だったのなら、満偉が許に留まったことで恨まれるのは変ですよね。従軍していた満長武が、父の看病のために帰りたいと言ったことが、司馬昭は気に入らなかったのかも。

門を通さなかったうんぬんは、満氏の父子を排除するための言いがかりでしょう。

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