張既(ちょうき) ※あざなは徳容(とくよう)

【姓名】 張既(ちょうき) 【あざな】 徳容(とくよう)

【原籍】 馮翊郡(ひょうよくぐん)高陵県(こうりょうけん)

【生没】 ?~223年(?歳)

【吉川】 第186話で初登場。
【演義】 第059回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張既伝』あり。

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雍涼(ようりょう)の安定に多大な貢献、諡号(しごう)は粛侯(しゅくこう)

父母ともに不詳。息子の張緝(ちょうしゅう)は跡継ぎで、張翁帰(ちょうおうき)も同じく息子。

張既は16歳で馮翊郡の小吏(下級官吏)となる。後に郡の高官を歴任するまでになり、孝廉(こうれん)に推挙されたが都へは上らなかった。

196年に司空(しくう)となった曹操(そうそう)から召されたが、まだ行かないうちに茂才(もさい)に推挙され、新豊県令(しんぽうけんれい)に任ぜられる。

新豊における張既の治績は三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)第一と評価された。

203年、曹操に黎陽(れいよう)で抵抗した袁尚(えんしょう)が、西方へ使者を遣わし関中(かんちゅう)の将軍たちと結ぼうとすると、張既は司隷校尉(しれいこうい)の鍾繇(しょうよう)の命を受け、馬騰(ばとう)らの説得に成功した。

205年、先に曹操に降った高幹(こうかん)が幷州(へいしゅう)で反乱を起こす。

これを受け、河内(かだい)の張晟(ちょうせい)配下の1万余が崤(こう)や澠(べん)の地を荒らし回り、河東(かとう)の衛固(えいこ)や弘農(こうのう)の張琰(ちょうえん)も挙兵し高幹に呼応した。

張既は議郎(ぎろう)として鍾繇の軍事に参画。馬騰らを呼び寄せて張晟軍を撃破する。衛固と張琰は斬首され、高幹は荊州(けいしゅう)へ逃走した。この功により張既は武始亭侯(ぶしていこう)に封ぜられた。

208年、曹操は荊州の劉表(りゅうひょう)討伐をもくろむが、依然として関中に割拠する馬騰らの動きが気になる。

そこで、命を受けた張既が再び馬騰のもとへ赴き、軍を解散して帰郷させるよう伝えた。

馬騰は承知したものの、その後で態度を変えたため、張既は変事の発生を心配する。

張既は諸県に布告して食糧の備蓄を急がせる一方、太守(たいしゅ)には郊外まで馬騰を出迎えるよう命じた。

やむなく馬騰が許都(きょと)へ向かうと、曹操は上奏して衛尉(えいい)とし、息子の馬超(ばちょう)を将軍としたうえで父の軍勢を任せた。

211年、馬超が反乱を起こした際、張既は曹操に付き従って華陰(かいん)で撃破し、西方へ進んで関右(かんゆう。関中)を平定する。

張既は京兆尹(けいちょういん)に任ぜられると、流民を招き寄せて県や邑(むら)の復興に尽力し民から慕われた。

213年、魏が建国された後に尚書(しょうしょ)を務め、地方へ出て雍州刺史(ようしゅうしし)に転ずる。

翌214年、夏侯淵(かこうえん)とともに宋建(そうけん)討伐にあたり、別軍として臨洮(りんとう)や狄道(てきどう)を攻め取った。

このとき曹操は住民を河北(かほく)に移住させたため、隴西(ろうせい)・天水(てんすい)・南安(なんあん)の3郡は動揺を来す。

しかし、張既が3郡出身の将校や官吏に休暇を与え、住まいを修理させたり水碓(すいたい。水車の力を利用したうす)を作らせたところ、民心は安定した。

翌215年4月、曹操の張魯(ちょうろ)討伐にも付き従い、別軍として散関(さんかん)から出撃。反抗する氐族(ていぞく)を討ち、麦を刈り取り自軍の兵糧に充てた。

同年11月に張魯が降伏した後、張既は曹操に進言し、漢中(かんちゅう)の数万戸を移住させ、長安および三輔の人口を増やすよう勧めた。

217年、劉備(りゅうび)配下の張飛(ちょうひ)・馬超・呉蘭(ごらん)らが下弁(かべん)に侵出する。

翌218年、張既は曹洪(そうこう)とともに呉蘭を撃破した。

翌219年、曹操が漢中から撤退を決意した際、劉備が北へ出て武都(ぶと)の氐族を味方に付け、関中に圧力をかけてくることを不安視する。

対策を尋ねられた張既は、北方の穀物に恵まれた地へ移るよう氐族に勧め、賊(劉備)を避けさせればよいとしたうえ、先に到着した者に手厚い褒美を与えるよう言った。

曹操はこの策を容れ、自ら漢中に赴いて諸軍の引き揚げを指揮する一方、張既を武都へ遣り、氐族の5万余人を扶風(ふふう)と天水両郡の郡界に移住させた。

このころ武威(ぶい)の顔俊(がんしゅん)、張掖(ちょうえき)の和鸞(からん)、酒泉(しゅせん)の黄華(こうか)、西平(せいへい)の麴演(きくえん)らが郡を挙げて反乱を起こし、勝手に将軍を名乗って互いに攻撃し合った。

そのうちの顔俊が母と子を人質として送ったうえ、曹操に援助を求めてきたとき、意見を聞かれた張既はこう答えた。

「顔俊らは殿のご威光を借りながら、不遜で逆心を抱いております。思い通りに事が運んで勢いづけば、すぐに背きましょう」

「今は劉備を討伐することに掛かりきりですので、とにかく皆を存立させておき、奴らを戦わせたほうがよろしいかと思います」

それから1年ほど後、和鸞は顔俊を殺し、その和鸞もまた武威の王秘(おうひ)に殺された。

当時まだ涼州が置かれておらず、三輔から西域(せいいき)に至る地はすべて雍州に属していた。

220年に曹丕(そうひ)が魏王(ぎおう)を継ぐと、初めて涼州が置かれ、安定太守(あんていたいしゅ)の鄒岐(すうき)を涼州刺史とした。

ところが、張掖の張進(ちょうしん)が太守の杜通(ととう)を捕らえて挙兵し、鄒岐の着任を拒む。黄華と麴演も太守を追い出して挙兵し、張進に呼応した。

張既は兵を進めて護羌校尉(ごきょうこうい)の蘇則(そそく)の加勢を装い、この動きを宣伝させる。おかげで蘇則は討伐の功を上げ、張既は都郷侯(ときょうこう)に爵位が進んだ。

翌221年、涼州の異民族である盧水(ろすい)・伊健妓妾(いけんぎしょう)・治元多(ちげんた)らが反乱を起こし、河西(かせい)は大騒動となる。

事態を重く見た曹丕は、涼州刺史の鄒岐を召し還して張既と交代させた。その際に下した詔(みことのり)の中で、先に判断を仰ぐことなく適宜に処置することも認めた。

さらに護軍(ごぐん)の夏侯儒(かこうじゅ)や将軍の費曜(ひよう)らを張既の後続部隊として続かせた。

金城(きんじょう)まで来ると、張既は皆の反対を制して黄河(こうが)を渡り、迅速に武威を目指そうとする。

7千の賊軍が鸇陰口(せんいんこう)で待ち受けていたが、張既は鸇陰を通ると宣伝させておき、ひそかに且次(しょじ)を通って武威に到着した。

賊は神業だと驚き、顕美(けんび)へ撤退。こうして張既が武威を押さえた後、ようやく費曜が着き、いまだ夏侯儒らは着かなかった。

将兵に褒美を与えてねぎらうと、すぐ張既は賊軍の追撃にかかろうとする。みな兵が疲れきっているからと反対したが、張既は現状を分析して追撃を断行し、顕美へ向かう。

賊軍の騎兵数千が、大風を利用して軍営の焼き打ちを計ろうとしたため、魏の将兵は心配する。

張既は夜を待って精兵3千を伏せたうえ、参軍(さんぐん)の成公英(せいこうえい)に1千余騎で賊軍に挑ませた。

成公英が策に従い負けたふりをすると、予想通り賊軍は追いかけてきた。

張既は伏兵を繰り出して賊軍の背後を断ち、これを挟撃し散々に討ち破る。首を斬ったり生け捕ったりした敵兵は5ケタの数に上った。

曹丕は詔を下して功をたたえ、張既を西郷侯(せいきょうこう)に移封し200戸を加増。以前と合わせて封邑(ほうゆう)は400戸となる。

後に酒泉の蘇衡(そこう)が反乱を起こし、羌族の有力者である鄰戴(りんたい)や丁令(ていれい)の蛮族1万騎とともに国境地帯の県を攻撃した。張既は夏侯儒と鎮圧にあたり、蘇衡や鄰戴を降す。

その後、張既は左城(さじょう)の修理と砦(とりで)の築造、さらに物見櫓(ものみやぐら)と食糧貯蔵庫を整備し、蛮族に備えたいと請願する。西羌族は恐れをなし、2万余の部族民を連れて降った。

別に西平の麴光(きくこう)らが太守を殺害すると、みな討伐を主張した。

だが張既は、麴光らが反乱を起こしただけのことで、郡民が必ずしも同調しているわけではないと判断する。そして以下の考えを述べた。

ここは軍勢をひきいて迫るより、奴らが後ろ盾にしようとしている羌族を説き、先手を取って彼らに襲撃させたほうがよい。

その際に手厚い恩賞と高額の礼金を与え、鹵獲品(ろかくひん)もすべて与えることにすれば、戦わずに落ち着くに違いない。

布令文を出して羌族を説諭し、麴光らにだまされて反乱に巻き込まれた者を赦免したうえ、よく賊の頭目を斬り、首を送ってきた者には領地や恩賞を与えると伝えた。

その結果、麴光の首が一味の者によって届けられ、みなもと通りに落ち着いた。

223年、張既が死去すると息子の張緝が跡を継ぐ。曹丕は張既の功績を高く評価し、彼の末息子の張翁帰も関内侯(かんだいこう)に封じた。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、亡き張既に粛侯の諡号が追贈された。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると、張既の家は代々の名家ではなかったものの、彼自身は容貌や行いが優れていたということです。

張既は若いころから文章を書くことが巧みで、郡の書簡を扱う役所の小役人になると、家も豊かになったのだと。

彼は名門の出身でなかったことから、自力だけでは昇進する道がないと考え、いつも上等な刀(誤字などを削る小刀)と筆、それに書板を用意しておき、上官に持っていない者を見つけては渡していた。そのおかげで認められるようになったのだとも。

この話も性格の一端を表しているのでしょうが、よく気の回る人だったらしい。

また本伝によると、張既はふたつの州(雍州と涼州)を統治すること10余年に及んだが、その政治と仁愛は評判の高いものだったといい――。

彼が礼をもって迎えた扶風の龐延(ほうえん)、天水の楊阜(ようふ)、安定の胡遵(こじゅん)、酒泉の龐淯(ほういく)、燉煌(とんこう)の張恭(ちょうきょう)や周生烈(しゅうせいれつ)などは、みな最後に名声と地位を得たともありました。

前に採り上げた梁習(りょうしゅう)は幷州の治績でたたえられていましたが、こちらの張既の治績も立派なものですね。

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