司馬朗(しばろう) ※あざなは伯達(はくたつ)

【姓名】 司馬朗(しばろう) 【あざな】 伯達(はくたつ)

【原籍】 河内郡(かだいぐん)温県(おんけん)

【生没】 171~217年(47歳)

【吉川】 第139話で初登場。
【演義】 第039回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・司馬朗伝』あり。

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疫病が蔓延(まんえん)する軍中で薬を配り、自身も病死

父は司馬防(しばぼう)だが、母は不詳。司馬遺(しばい)という息子がいた。

司馬懿(しばい)・司馬孚(しばふ)・司馬馗(しばき)・司馬恂(しばじゅん)・司馬進(しばしん)・司馬通(しばとう)・司馬敏(しばびん)は弟。

8人兄弟のあざなにいずれも達の字が含まれていたことから、敬意を込めて「司馬の八達」と称された。

182年、司馬朗は12歳で経書の試験を受け、童子郎(どうじろう)になる。この際、試験の監督官は彼の身体が大きく立派だったことから、年齢を偽っているのではないかと疑う。

尋ねられた司馬朗は答えた。

「朗(わたくし)の父方と母方は、ともに代々大柄なのです。朗は幼弱ではありますが、出世を願う気持ちなどなく、年齢を偽ってまで早成しようとは思いません」

監督官は彼の言葉を聞き、見どころがあると感じたという。

後に関東(かんとう。函谷関〈かんこくかん〉以東の地域)で兵乱が起こる。

190年、董卓(とうたく)は献帝(けんてい)に迫って長安(ちょうあん)への遷都を強行したものの、自身は洛陽(らくよう)に留まった。

父の司馬防は治書御史(ちしょぎょし)を務めており、長安へ移らなくてはならなかったが、四方が麻のごとく乱れていたので、司馬朗に家族を託して郷里へ帰るよう命ずる。

これを見た者が、司馬朗は逃亡するつもりだと密告した。

司馬朗は捕らえられ、董卓のもとに連行されてしまう。しかし、司馬朗は董卓の功績や徳義をたたえて機嫌を取り、うまくその場をしのぐ。

司馬朗は董卓の滅亡を確信したが、一方で引き留められることを心配する。

そこで持っていた金品をすべて使い、董卓の配下で権力を握っている者への賄賂とし、帰郷を認めてもらった。

こうして司馬朗は郷里に戻ると、長老らを説き、一族を挙げて東の黎陽(れいよう)へ行くことを勧める。

だが、長老らはこの地を離れようとせず、司馬朗に同行したのは趙咨(ちょうし)の一家だけだった。

『三国志』に登場する趙咨はふたりいて、こちらは司馬懿と同郷で、あざなが君初(くんしょ)のほう。呉(ご)の孫権(そんけん)に仕えた趙咨は南陽(なんよう)の出身で、あざなを徳度(とくたく)という。

この年、関東の州郡で反董卓連合軍の挙兵があり、数十万の軍勢が滎陽(けいよう)と河内に集結する。

ところが、連合軍の諸侯は協力し合うことができず、兵を放ってほしいままに略奪を働き、住民の半数近くが殺されてしまう。その後、連合軍は解散した。

192年、司馬朗は22歳で曹操(そうそう)に召され、司空掾属(しくうえんぞく)となり、後に成皐県令(せいこうけんれい)を務める。

司馬朗が22歳の時というので192年のことだと思われるが、曹操が司空に就任したのは196年。ここはいくらか引っかかる。

やがて病気のために辞職したが、回復後に堂陽県長(どうようけんちょう)に任ぜられた。司馬朗の行政は寛大で恵み深いもので、鞭(むち)打ちや杖打ちの罰を用いなくても住民は禁令を犯さなくなる。

以前、堂陽の県民の中から、都の人口を増やすために移住を強制された者たちがいた。

後に堂陽県に船を造れという命が下ったとき、都へ移住した者たちが連れ立って密かに戻り、この作業を手助けする。司馬朗が民に愛されている様子はこのようなものだった。

194年、曹操と呂布(りょふ)が濮陽(ぼくよう)で対峙(たいじ)したが、このころ司馬朗は家族を連れて温県に帰る。そこへ大飢饉(だいききん)が襲い、人々は互いに食らい合った。

だが、そのような状況下にあっても、司馬朗は一族の者をいたわり養い、若者の教育に努め、末世だからと仕事をおろそかにしなかった。

後に司馬朗は元城県令(げんじょうけんれい)に昇進し、中央へ入って丞相主簿(じょうしょうしゅぼ)となる。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

さらに兗州刺史(えんしゅうしし)に昇進すると、政治と教化が十分に行き渡り民の称賛を得た。

司馬朗は従軍中も粗衣粗食を貫き、飾らぬ態度で部下を導く。平素は人物評価と古典を読むことを好んだ。

同郷の李覿(りてき)らは盛んな名声と栄誉を得ていたが、司馬朗は評価しなかった。後に李覿らは失敗したため、みな彼の見識に心服したという。

217年、曹操が孫権討伐の親征を行った際、司馬朗は夏侯惇(かこうとん)や臧霸(そうは)らとともに従軍する。

居巣(きょそう)に駐留していたときに疫病が大流行すると、彼は自ら巡視して薬を配ったが、自分も病気にかかって亡くなる。このとき47歳だった。

司馬朗は死に臨み、(遺骸には)麻布の服(庶民が着る服)と幅巾(ひと幅の布で作った頭巾)を着け、その季節の服だけを副葬せよと遺言。州民はそのような彼を追慕した。

管理人「かぶらがわ」より

本伝から事績を拾ったぐらいだと、190年以降の司馬朗の様子はイマイチわかりにくかったです。

司馬朗は従軍中に疫病にかかって亡くなりましたが、司馬懿を始めとする弟たちに与えた影響の大きさを考えれば、一個人の死以上の意味を持っています。ちなみに父の司馬防は、彼の死から2年後の219年に71歳で亡くなりました。

また、本伝によると司馬朗の跡継ぎについては、曹叡(そうえい)から昌武亭侯(しょうぶていこう)に封ぜられたという彼の息子の司馬遺ではなく、司馬朗の弟である司馬孚の息子の司馬望(しばぼう)が跡を継いだという記事がありました。

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