【姓名】 蒯越(かいえつ) 【あざな】 異度(いたく)
【原籍】 南郡(なんぐん)中廬県(ちゅうろけん)
【生没】 ?~214年(?歳)
【吉川】 第122話で初登場。
【演義】 第006回で初登場。
【正史】 登場人物。
曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)よりも欲しがった名士
父母ともに不詳。蒯良(かいりょう)は兄。
蒯越は、秦末(しんまつ)漢初(かんしょ)の人である蒯通(かいとう)の後裔(こうえい)にあたるという。公正な人柄で才知もあり、堂々たる風貌を備えていた。
彼の名声を聞いた大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)から召され、東曹掾(とうそうえん)に任ぜられた。
★何進が大将軍を務めていた期間は184~189年。
蒯越は宦官(かんがん)の誅殺を進言したが、何進は決断できない。
そこで蒯越は何進を見限り、自ら求めて汝陽県令(じょようけんれい)として転出すると、190年に荊州刺史(けいしゅうしし)となった劉表(りゅうひょう)を補佐し、州内の平定に貢献した。
後に蒯越は、献帝(けんてい)の詔(みことのり)により章陵太守(しょうりょうたいしゅ)に任ぜられ、樊亭侯(はんていこう)に封ぜられた。
208年7月、曹操が軍勢をひきいて南下を開始し、荊州の攻略に乗り出す。
同年8月、劉表が病死。長男の劉琦(りゅうき)を差し置き、次男の劉琮(りゅうそう)が跡を継ぐ。
蒯越は、従事中郎(じゅうじちゅうろう)の韓嵩(かんすう)や東曹掾の傅巽(ふそん)とともに曹操への帰順を進言。劉琮は初め渋ったものの、結局は彼らの意見に従う。
曹操に帰順した後、蒯越は光禄勲(こうろくくん)に任ぜられ、改めて列侯(れっこう)に封ぜられた。
蒯越は214年に死去したが、臨終に際して曹操に手紙を送り、家族のことを頼んだという。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・劉表伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く傅玄(ふげん)の『傅子(ふし)』などによるものです。
この『傅子』には、曹操が荊州平定後に荀彧(じゅんいく)に手紙を送り、こう述べたともありました。
「荊州を手に入れたことより、蒯異度(異度は蒯越のあざな)を手に入れたことのほうがうれしい」
このように高い評価を得た蒯越でしたが、補佐役としては諸葛亮(しょかつりょう)などとは比べられないでしょう。
まぁ、劉琦にせよ劉琮にせよ、皆で守り立てて曹操に対抗するには力不足ですよね。それにしても、旧劉表配下の重臣たちは割り切りが早い……。
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