劉琮(りゅうそう)A ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の息子

【姓名】 劉琮(りゅうそう) 【あざな】 ?

【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん)

【生没】 ?~262年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第118回で初登場。
【正史】 登場人物。

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蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子、西河王(せいかおう)

父は劉禅だが、母は不詳。

劉璿(りゅうせん)と劉瑶(りゅうよう)は兄で、劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)はみな弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。

劉琮は252年に西河王に封ぜられたが、262年1月に薨去(こうきょ)した。

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管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉璿伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『蜀世譜(しょくせいふ)』には、「劉璿の弟は劉瑶・劉琮・劉瓚・劉諶・劉恂・劉虔の6人だった」とあり、「(263年に)蜀が(魏〈ぎ〉に)敗れたとき劉諶は自殺したが、ほかの者はみな内地(魏都の洛陽〈らくよう〉)へ移住した」ともありました。

でも、洛陽移住組に劉琮も含まれるのはおかしいですよね。彼は262年1月に亡くなっているわけですから――。孫盛の勘違いなのか、『蜀世譜』がその程度のものだということなのか?

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