【姓名】 孫氏(そんし) ※名とあざなは不詳
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第033話で初登場。
【演義】 第007回で初登場。
【正史】 登場人物。
蜀(しょく)の劉備(りゅうび)のもと正室
父は孫堅(そんけん)だが、母は不詳。
孫策(そんさく)・孫権(そんけん)・孫翊(そんよく)・孫匡(そんきょう)・孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)は兄弟。
209年、孫権の意向を受けて劉備に嫁ぐ。
214年、劉備が成都(せいと)を攻略した後、孫権のもとに呼び戻される。その際、まだ幼い劉禅(りゅうぜん)も連れ帰ろうとしたが、趙雲(ちょううん)と張飛(ちょうひ)に阻止された。その後の孫氏の動静は不明。
管理人「かぶらがわ」より
孫氏の母は、おそらく孫堅の正室だった呉氏(ごし。武烈皇后〈ぶれつこうごう〉)なのだと思いますが、イマイチはっきりしませんでした。
吉川『三国志』や『三国志演義』では、呉氏(武烈皇后)の妹も孫堅の側室ということになっており、この妹の呉氏が生んだ娘の名が、仁(孫仁)だとあります。
ですがこれは創作で、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞喜(ぐき)の『志林(しりん)』によると、孫堅には、孫策・孫権・孫翊・孫匡・孫朗という5人の息子があり、末の孫朗以外は、みな正室の呉氏が生んだ子だということです。
「孫朗だけは庶子で、一名を孫仁と言った」ともあるので、孫仁(孫朗)という娘がいたわけではないことがわかります。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・法正伝〈ほうせいでん〉)によれば、「孫氏は才気と剛勇において、兄たちと似たところがあった」ということです。
「100余人の侍女は、みな刀を手に控えており、劉備は奥に入るといつもビクビクしていた」のだとか。こういった様子は、吉川『三国志』や『三国志演義』でも描かれていました。
また『三国志』(蜀書・趙雲伝)の裴松之注に引く『趙雲別伝(ちょううんべつでん)』には、孫氏が孫権の妹であることを鼻にかけ、驕慢(きょうまん)な振る舞いをしていたことが書かれています。「孫氏は孫権が付けてくれた大勢の兵を従え、したい放題で法を守ろうとしなかった」のだと。
そして『三国志演義』(第84回)では、222年に劉備が猇亭(おうてい)で陸遜(りくそん)に大敗した際、すでに呉に戻っていた孫氏が、劉備戦死の誤報を信じ、長江(ちょうこう)に身を投げて死んだという設定にしていました。
まぁ、この設定はアリかなという気がします。ただ史実からは、そこまで孫氏が劉備を慕っていた印象は受けません。
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