郝昭(かくしょう) ※あざなは伯道(はくどう)

【姓名】 郝昭(かくしょう) 【あざな】 伯道(はくどう)

【原籍】 太原郡(たいげんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第287話で初登場。
【演義】 第096回で初登場。
【正史】 登場人物。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

陳倉(ちんそう)で諸葛亮(しょかつりょう)の猛攻を退けた名将

父母ともに不詳。郝凱(かくかい)という息子がいた。

郝昭は勇壮で若いころから部曲督(ぶきょくとく)を務め、戦功を重ねて雑号将軍(ざつごうしょうぐん)となった。河西(かせい)一帯を10年以上にわたって治め、住民や異民族から畏怖されたという。

227年、西平(せいへい)の麴英(きくえい)が反乱を起こし、臨羌県令(りんきょうけんれい)や西都県長(せいとけんちょう)を殺害する。

郝昭は将軍の鹿磐(ろくはん)とともに討伐にあたり、麴英を斬った。

翌228年、先に郝昭が曹真(そうしん)の命を受けて整備した陳倉城が、蜀(しょく)の諸葛亮に包囲される。

諸葛亮は、郝昭と同郷の靳詳(きんしょう)を遣わし城外から説得させたものの、郝昭は耳を貸さない。

陳倉は20余日も蜀軍の猛攻にさらされたが、郝昭はよく防いだ。そのうち魏(ぎ)の援軍が着き、諸葛亮は撤退した。

曹叡(そうえい)は詔(みことのり)を下して郝昭の功を褒めたたえ、列侯(れっこう)に封ずる。

さらに曹叡は重用したいと考えていたものの、ほどなく郝昭は病死(時期は不明)してしまった。

郝昭は息子の郝凱にこう遺言したという。

「私は将軍だったから、その地位が大したものでないことを知っている」

「また、たびたび私は他人の墓を暴き、そこから取り出した木で武器を作ったから、厚葬が死者の役に立たないことも知っている」

「お前は私を官服に包んだだけで埋葬せよ。居場所というのは生きている者のためにある。死者の居場所などどこにあろうか?」

「この地は先祖代々の墓から遠く離れているが、東西南北どこに埋めても構わぬ。お前のよいようにせよ」

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

『魏略』には数万の蜀軍に対し、郝昭が1千余の軍勢で陳倉を守り抜いた様子が書かれていました。

靳詳の説得が不調に終わり、敵の援軍の到着まで時間があるとみた諸葛亮は、ついに陳倉城への攻撃を命じます。

諸葛亮が雲梯(うんてい。長いはしごを備えた戦車)や衝車(しょうしゃ。突撃用の戦車)を繰り出すと、郝昭は火矢を使って雲梯を焼き、縄に縛った石臼(いしうす)を用いて衝車を破壊。

ならばと諸葛亮が井欄(せいらん。木を井戸の囲いの形に組み上げた兵器)を繰り出し、城壁から突入を図ると、郝昭は城内に二重の障壁を築いて対抗。

そこで諸葛亮がトンネルを掘らせ、地中から城内へ入り込もうとすると、郝昭も別に地中を掘らせ、敵のトンネルを分断。

攻防戦は昼夜を問わず20日余り続き、さすがの諸葛亮も打つ手がなく、敵の援軍が到着したため引き揚げたのだと。

(正史の)『三国志』では大きく扱われていませんでしたが、もっと郝昭は評価されてもよかったのではないでしょうか。

彼の遺言も、当時の常識よりかなり進んだものだと思います。自身の戦場での経験が基になっての言葉ですから、いっそう重みが感じられますね。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました