【姓名】 陸遜(りくそん) 【あざな】 伯言(はくげん)
【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)
【生没】 183~245年(63歳)
【吉川】 第135話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・陸遜伝』あり。
軍事と政事の両面で大活躍を見せるも、最期は孫権(そんけん)に疎まれての憤死、江陵昭侯(こうりょうしょうこう)
父は陸駿(りくしゅん)だが、母は不詳。陸瑁(りくぼう)は弟。陸延(りくえん)と陸抗(りくこう)という息子がおり、跡を継いだのは陸抗。妻は孫策(そんさく)の娘の孫氏(そんし)。
陸遜はもとの名を議(ぎ。陸議)といい、家は代々江東(こうとう)の豪族だった。彼は幼いころに父を亡くしたため、従祖(父の従兄弟)で廬江太守(ろこうたいしゅ)の陸康(りくこう)のもとに身を寄せる。
やがて陸康と袁術(えんじゅつ)の関係が悪化し、袁術が陸康を攻める気配を見せると、陸康は陸遜ら親戚を呉郡へ帰らせた。
このとき陸遜が、陸康の息子の陸績(りくせき)より5歳年上だったため、陸績に代わり、陸遜が一族を取りまとめることになった。
203年、陸遜は討虜将軍(とうりょしょうぐん)の孫権の将軍府に入り、東曹(とうそう)や西曹(せいそう)で令史(れいし)を務める。
後に地方へ出て海昌(かいしょう)の屯田都尉(とんでんとい)となり、併せて県の統治も任された。
その後、孫権の許しを得て志願兵を募り、会稽(かいけい)にいた山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の首領の潘臨(はんりん)や、鄱陽(はよう)の不服従民の頭目である尤突(ゆうとつ)の討伐に成功。
この功により定威校尉(ていいこうい)に任ぜられ、利浦(りほ。当利浦〈とうりほ〉)に駐屯した。
陸遜は孫策の娘を娶(めと)ると、孫権に山越を平定する重要性を説いて帳下右部督(ちょうかゆうぶとく)に任ぜられた。
陸遜は丹楊(たんよう)の不服従民の頭目の費桟(ひさん)を討伐した後、丹楊・新都(しんと)・会稽の3郡で軍勢を整えて数万の精兵を得る。こうして各地の賊を一掃すると、軍勢を返して蕪湖(ぶこ)に駐屯した。
219年8月、関羽(かんう)が魏(ぎ)の樊城(はんじょう)の攻略に向かうと、これまで関羽と対峙(たいじ)してきた呂蒙(りょもう)が孫権の許しを得、病気を理由に建業(けんぎょう)へ帰還する。
そして、まだ対外的には名の知られていない陸遜を後任とするよう求めたため、孫権は陸遜を偏将軍(へんしょうぐん)・右部督に任じ、呂蒙に代えて陸口(りくこう)へ赴かせた。
陸口に着任した陸遜は関羽に手紙を送ったが、その文面は大いにへりくだったもので、これに安心した関羽は孫権軍への警戒を緩めてしまう。
ほどなく陸遜の献策が容れられると、孫権は密かに軍勢を動かして長江(ちょうこう)をさかのぼり、呂蒙と陸遜に先鋒を命ずる。
ふたりは公安(こうあん)と南郡(なんぐん。江陵)を速やかに攻略。次いで陸遜は宜都(ぎと)へ進み、撫辺将軍(ぶへんしょうぐん)・宜都太守に任ぜられ、華亭侯(かていこう)に封ぜられた。
同年11月、劉備(りゅうび)配下の宜都太守の樊友(はんゆう)が郡を捨てて逃走し、郡内の諸城の長官や異民族の酋長(しゅうちょう)らもみな孫権に降る。陸遜は孫権から官印を請い受け、新たに帰順した者たちに授けた。
また、陸遜は将軍の李異(りい)と謝旌(しゃせい)に命じ、3千の軍勢をもって劉備配下の詹晏(せんあん)と陳鳳(ちんほう)を攻めさせる。
李異が水軍を、謝旌が歩兵を、それぞれ指揮し、要害の地を押さえて詹晏らを討ち破り、陳鳳を生け捕った。
さらに劉備配下の房陵太守(ぼうりょうたいしゅ)の鄧輔(とうほ)と南郷太守(なんきょうたいしゅ)の郭睦(かくぼく)を攻め、これを大破した。
秭帰(しき)の豪族の文布(ぶんふ)や鄧凱(とうがい)らは異民族の兵士数千人を指揮下に置き、西方の劉備と通じていた。そこで陸遜は謝旌とともに、文布と鄧凱を討ち破る。
文布と鄧凱は逃走して劉備の部将になったが、陸遜がふたりのもとに人を遣り、改めて孫権に帰順するよう勧めると、文布のほうは部下を引き連れて応じた。
一連の作戦で斬ったり捕らえたり、帰順した敵兵は数万人に上ったため、陸遜は功により右護軍(ゆうごぐん)・鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)に任ぜられ、婁侯(ろうこう)に爵位が進んだ。
221年、蜀(しょく)の劉備が大軍をひきいて侵攻すると、陸遜は大都督(だいととく)・仮節(かせつ)に任ぜられる。
そして朱然(しゅぜん)・潘璋(はんしょう)・宋謙(そうけん)・韓当(かんとう)・徐盛(じょせい)・鮮于丹(せんうたん)・孫桓(そんかん)らとともに、5万の軍勢を指揮して防戦にあたった。
翌222年、劉備は、部将の呉班(ごはん)に数千の兵を付けて平原地帯まで進出させたが、陸遜は囮(おとり)であることを見抜き、出撃したがる諸将を制して様子を見た。
劉備は計略の失敗を悟り、伏せていた8千の兵をひきいて渓谷から平野へ出る。
陸遜は、試しにひとつの敵陣を攻撃させて敗れたものの、次の攻撃時には兵士にひと束ずつ茅(カヤ)を持たせ、火攻めをもって敵陣を陥す。
これを契機として総攻撃に移り、蜀将の張南(ちょうなん)や馮習(ふうしゅう)、異民族の王である沙摩柯(さまか)らを斬り、40か所を超える軍営を討ち破った。
さらに馬鞍山(ばあんざん)に逃れた劉備を攻め続けると、蜀軍は土崩瓦解して数万の死者を出す。劉備自身は夜陰に紛れて逃走し、やっとのことで白帝城(はくていじょう)までたどり着いた。
陸遜は輔国将軍(ほこくしょうぐん)・荊州牧(けいしゅうぼく)に任ぜられ、江陵侯に移封された。
228年、鄱陽太守の周魴(しゅうほう)の偽降に引っかかり、魏の大司馬(だいしば)の曹休(そうきゅう)が、大軍をひきいて皖(かん)まで誘い込まれる。
陸遜は孫権から黄鉞(こうえつ。黄金の鉞〈まさかり〉)を貸し与えられ、大都督として迎撃に向かう。
そして朱桓(しゅかん)や全琮(ぜんそう)とともに曹休軍を追い散らし、斬ったり捕らえたりした魏兵は1万余人に上り、多数の鹵獲品(ろかくひん)も得た。
凱旋後、陸遜は手厚い下賜品を授けられ、再び任地の西陵(せいりょう)へ戻った。
翌229年、陸遜は上大将軍(じょうだいしょうぐん)・右都護(ゆうとご)に任ぜられる。
孫権は武昌(ぶしょう)から建業へ遷都したが、武昌には皇太子の孫登(そんとう)や皇子らが留まり、尚書(しょうしょ)の役所も残された。
このとき陸遜が武昌に呼ばれて孫登の後見役を務め、荊州および豫章(よしょう)・鄱陽・廬陵(ろりょう)の3郡の軍事や国事も監督することになった。
233年、遼東(りょうとう)の公孫淵(こうそんえん)が呉との盟約に背くと、孫権自ら討伐に赴こうとする。それでも陸遜らが上疏して諫めた結果、孫権は遠征を思いとどまった。
翌234年、孫権自ら軍勢をひきいて魏の合肥(ごうひ)に迫り、陸遜と諸葛瑾(しょかつきん)は魏の襄陽(じょうよう)を攻める。
★本伝には嘉禾(かか)5(236)年のこととあったが、嘉禾3(234)年のことかと思われる。
陸遜は部下の韓扁(かんへん)に命じ、孫権に戦況報告の上表文を届けさせたが、韓扁は帰途の沔中(べんちゅう)で魏軍に遭遇し、捕らえられてしまう。
諸葛瑾は韓扁が捕らえられたと聞くと、陸遜に引き揚げを勧める。しかし陸遜は、皆に蕪(カブ)や豆を植えさせただけで、部将らと遊び興じ、普段通りに過ごしていた。
その一方で密かに計を立て、諸葛瑾に軍船の指揮を任せると、陸遜自身はすべての歩騎を上陸させて襄陽城を攻めるように見せかける。
あわてた魏軍が城内へ引き返すと、諸葛瑾は軍船を出航させ、首尾よく陸遜らを収容して引き揚げた。
陸遜は白囲(はくい)に軍勢を留め、この地で狩猟を行うと宣伝しつつ、将軍の周峻(しゅうしゅん)や張梁(ちょうりょう)に命じ、江夏(こうか)の新市(しんし)・安陸(あんりく)・石陽(せきよう)の3県を急襲させる。
呉軍が斬ったり生け捕ったりした魏兵は数千人に上り、江夏の功曹(こうそう)の趙濯(ちょうたく)や、弋陽(よくよう)を守っていた裴生(はいせい)、異民族の王である梅頤(ばいい)らが、それぞれ配下を引き連れて帰順した。
237年、中郎将(ちゅうろうしょう)の周祗(しゅうし)が鄱陽で募兵を行うと、郡民の呉遽(ごきょ)らが反乱を起こし、周祗を殺して近隣の県を攻め落とす。豫章や廬陵にいた不服従民も、呉遽に呼応して略奪を始めた。
陸遜は願い出て討伐にあたり、次々と賊を討ち破ると、呉遽らを降して鄱陽・豫章・廬陵の3郡を平定した。
244年、陸遜は前年に死去した顧雍(こよう)に代わり、丞相(じょうしょう)に任ぜられる。
これ以前、皇太子の孫和(そんか)と魯王(ろおう)の孫霸(そんは)との間で確執が生ずると、陸遜は繰り返し上書し、ふたりの待遇の区別を明確にするよう求めた。
さらに都の建業へ赴き、孫権の御前で意見を述べたいと願い出たものの、許しは得られなかった。
そればかりか、陸遜の甥の顧譚(こたん)・顧承(こしょう)・姚信(ようしん)らは、みな孫和に取り入っていると言いがかりをつけられて流罪となる。
加えて太子太傅(たいしたいふ)の吾粲(ごさん)は、陸遜と連絡を取り合っていた罪で投獄後に誅殺された。
たびたび孫権は陸遜のもとにも問責の使者を遣わしたため、翌245年、ついに陸遜は憤死する。このとき63歳だった。彼の家には財産らしいものが残されていなかったという。長男の陸延は早くに亡くなっていたので、次男の陸抗が爵位を継いだ。
後に孫休(そんきゅう)の時代(258~264年)になり、陸遜に昭侯の諡号(しごう)が追贈された。
管理人「かぶらがわ」より
ここまでも「二宮の変(孫和派と孫霸派による確執)」の巻き添えになって、報われない最期を遂げた重臣を採り上げてきましたが、陸遜もそのひとり。
しかし、大功ある丞相が憤死する国っていったい――。陸遜の死後、よく呉は30年以上も保ったものですね。
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