王粛(おうしゅく)

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【姓名】 王粛(おうしゅく) 【あざな】 子雍(しよう)

【原籍】 東海郡(とうかいぐん)郯県(たんけん)

【生没】 195~256年(62歳)

【吉川】 第294話で初登場。
【演義】 第099回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王朗伝(おうろうでん)』に付された「王粛伝」あり。

父に似て学者肌。蘭陵景侯(らんりょうのけいこう)

父は王朗だが、母は不詳。30歳近く年の離れた弟がいた。息子の王ウン(おううん。忄+軍)は跡継ぎで、このほか王恂(おうじゅん)・王虔(おうけん)・王ガイ(おうがい。忄+豈)ら7人の息子がいた。

212年、王粛は18歳で宋忠(そうちゅう)に師事。『太玄経(たいげんきょう)』を学び、改めてその解釈を著す。そして曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)に「散騎侍郎(さんきじろう)」に任ぜられる。

228年、王朗が死去したためその跡を継ぎ、「蘭陵侯」に封ぜられた。

翌229年、「散騎常侍(さんきじょうじ)」に昇進。

翌230年、大司馬(だいしば)の曹真(そうしん)が蜀(しょく)の討伐に向かう。

このとき王粛は上奏を行い、険阻の地へ深く入り込んでいるうえ長雨に遭い、兵糧も遠くから送らねばならないことに懸念を示し、曹真が出征後の1か月で子午谷(しごこく)の半分までしか行軍できておらず、道路の工事にすべての兵士が参加している状況だとして、これは兵家の憚(はばか)るものだと述べた。進言が容れられた結果、魏軍は撤退することになった。

また、仕事のない官位を省いて緊急性のない俸禄を抑制し、職務にかこつけた会食の費用を廃し、暇な官職を併せるよう上奏した。

さらに、朝廷の儀礼が失われている現状を憂い、5日ごとに天子(てんし)が政治を執る規則や、公卿(こうけい)と尚書(しょうしょ)に対し、報告と命令授受のため参内させる規則を復活させるよう求めた。

のち王粛は「常侍」の身分で「秘書監(ひしょかん)」を担当し、「崇文観祭酒(すうぶんかんさいしゅ)」を兼ねる。

曹叡(そうえい)の景初(けいしょ)年間(237~239年)、宮殿の造営が盛んに行われ、民は農業に従事できなかった。約束の労役期間はいい加減で刑罰もなおざりに執行されていた。

そこで王粛が上奏し、今は民を休ませ恩恵を施すべきときだとして、現在3、4万人を駆り出している人夫について、常時、扶持(ふち)を受けている者の中から差し迫った仕事を持たない者を起用することとし、成年の男子を選んで1万人を留め置き、1年ごとに交代させる。1年の労役を終えた者には3年の休息を与え、ほかの者は各地で農業に従事させるのが行き詰まりのない計画だと述べた。

また、およそ陛下がその場に応じて執行された刑の対象者は、みな罪を犯した官吏で、死刑に該当する者たちだったとしながらも、しかし庶民はこのことを理解しておらず、刑の執行がなおざりだと感じている。今後は罪人を役人に下げ渡され、その罪を公表し、それが死と釣り合うことを示されるようにと進言した。

240年、王粛は地方へ出て「広平太守(こうへいのたいしゅ)」となるも、公務によって召し還され「議郎(ぎろう)」に任ぜられた。しばらくして「侍中(じちゅう)」となり、さらに「太常(たいじょう)」に昇進する。

その後、宗廟(そうびょう)の祭祀(さいし)に関することで免職となり、のち「光禄勲(こうろくくん)」となった。

252年5月、1尺(せき)ほどの2匹の魚が武器庫の屋根に上がるという事件が起こる。担当官吏は吉兆と判断したが、王粛はこう言った。

「魚は淵(ふち)に住むものなのに、それが屋根に上がった。甲羅と鱗(うろこ)のある生き物(貝類と魚類)が住む場所を取り違えたということだ。辺境の将軍(しょうぐん)が甲(よろい)を捨てて敗れる、という変事があるに違いない」

同年12月、魏軍が東関(とうかん)で呉(ご)の諸葛恪(しょかつかく)に大敗した。のち王粛は「河南尹(かなんのいん)」に転任。

254年、王粛は「持節(じせつ)・兼太常」として法駕(ほうが。天子の御車の一種)を奉戴(ほうたい)し、高貴郷公(こうききょうこう)の曹髦(そうぼう)を元城(げんじょう)まで迎えに行く。

この年、白気が天空を横切った。大将軍(だいしょうぐん)の司馬師(しばし)に尋ねられると、王粛は「蚩尤(しゆう。古代の英雄)の旗だ」と言い、東南での動乱を予想。「もし殿がわが身を修めて民を安んずれば、天下の人々はその徳に帰服し、動乱の首謀者は真っ先に滅びましょう」とも言った。

ここでいうものと関係があるのかよくわからなかったが、「蚩尤旗」については、范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)の191年9月の記事にも登場していた。

翌255年春、鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の毌丘倹(かんきゅうけん)と揚州刺史(ようしゅうしし)の文欽(ぶんきん)が淮南(わいなん)で反乱を起こす。

再び司馬師から対策を問われると、王粛は以前、劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)が荊州(けいしゅう)にいたときの話を持ち出す。

漢水(かんすい)の沿岸で于禁(うきん)を降し、北へ向かい天下を争う意図さえ抱いた関羽だったが、孫権(そんけん)の襲撃を受けて将兵や家族が捕らえられると、一挙に瓦解(がかい)したではないかと。

いま淮南の将兵(毌丘倹や文欽の部下)の父母や妻子は、みな内州(首都圏)にいる。急いで軍を進発させて侵入を防ぎ、反乱軍の前進を阻止するだけで、必ずや関羽と同じ土崩の形勢が現れるでしょう、とも。

司馬師は王粛の説に従い、軍勢をひきいて寿春(じゅしゅん)へ急行。毌丘倹と文欽の軍を楽嘉(らくか)で撃破することができた。

王粛は「中領軍(ちゅうりょうぐん)」に昇進し「散騎常侍」の官位を加えられ、300戸の加増を受ける。以前と合わせて封邑(ほうゆう)は2200戸となった。

翌256年、王粛が死去すると、喪服を着けた門弟の数は3ケタに上ったという。「衛将軍(えいしょうぐん)」の官位を追贈され「景侯」と諡(おくりな)される。息子の王ウンが跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には以下のようにありました。

「その昔、王粛は賈逵(かき)や馬融(ばゆう)の学問に親しみ、鄭玄(ていげん)の学問を好まなかった。学説の異同を集め、『尚書』『詩経(しきょう)』『論語(ろんご)』『三礼(さんらい。周礼〈しゅらい〉・儀礼〈ぎらい〉・礼記〈らいき〉)』『左氏(さし。左氏伝)』の解釈をした」

「さらに父の王朗が書いた『易伝(えきでん)』を選択して定稿を作ったが、すべて学官に立てられた。彼が論駁(ろんばく)した朝廷の制度、郊祀(天を祭る祭祀)・宗廟・喪事ほか大小の問題は、全部で百余編あった」

曹叡の失策っぽいものについては、もちろん『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)に記されていませんが、王粛の諫言ぎみの上奏文などからその一端がうかがえます。

宮殿の造営に駆り出している人夫をゼロにすべきと言えば、曹叡は不機嫌になるに違いない。なので、いま3、4万人を使っているものを1万人ずつのローテーションにしましょうという提案は、なかなかの落としどころだと思います。まぁ、この進言が容れられたのかどうか、本伝には書かれていないのですけどね。

陳寿(ちんじゅ)は「王粛は誠実にして博学。よく父の業を継いだ」と評しています。これに対し裴松之注(はいしょうしちゅう)に劉寔(りゅうしょく)の意見も引かれており、劉寔は以下の3点を挙げ、王粛の矛盾を指摘していました。

上の者には折り目正しく仕えたのに、下の者が自分にへつらうのを好んだこと。栄誉と高貴を好む質なのに、適当に権力者に取り入ろうとはしなかったこと。ケチなのに金銭に身を汚されない生き方をしたこと。

こう言われてしまえばそれまでですが……。権力・名誉・財物というものに対し、とことん背を向けて生きるのは難しいですよ。王粛が指摘されたような矛盾は、多くの人に当てはまるのではないでしょうか?

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