曹氏(そうし)D ※曹操(そうそう)の娘、金郷公主(きんきょうこうしゅ)

【姓名】 曹氏(そうし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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魏(ぎ)の曹操(そうそう)の娘で曹丕(そうひ)の異母姉妹、金郷公主(きんきょうこうしゅ)

父は曹操、母は杜氏(とし)。同母兄弟に曹林(そうりん)と曹袞(そうこん)がいる。

曹氏は、何進(かしん)の孫の何晏(かあん)に嫁いだ。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹真伝〈そうしんでん〉)に付された「何晏伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏末伝(ぎまつでん)』によると――。

「何晏の妻の金郷公主は、実は何晏の同母妹だった。金郷公主は聡明(そうめい)な女性で、夫の何晏の悪行を憂え、母である沛王太妃(はいおうたいひ)に相談していた」ということです。

その後、249年に正始(せいし)の政変(司馬懿〈しばい〉によるクーデター)が起きた際、曹爽(そうそう)の一味として何晏も誅殺されています。

このとき何晏には5、6歳になる息子がひとりいて、いったんはその子を捕らえる使者が遣わされました。

しかし司馬懿は、金郷公主が先を見通す発言をしていたことを聞いており、沛王太妃の顔を立てるためにも、特に息子の助命を許したとあります。

この『魏末伝』の記事には裴松之が、「『魏末伝』では、何晏が同母妹を娶(めと)って妻にしたと言っているが、これは紳士たる者が口にするのも恥ずかしいことである」と述べたうえ……。

『三国志』(魏書・沛穆王林伝〈はいぼくおうりんでん〉)を調べて「沛王(曹林)は杜氏が生んだ人物であること」を挙げ、「何晏の母は尹氏(いんし)であり、もし金郷公主が沛王(曹林)と同じ母(杜氏)から生まれたとすれば、どうして何晏と母が同じだと言えようか」とまとめています。

この指摘は合っていて、『魏末伝』の撰者(せんじゃ)が勘違いしたのでしょうね。

何晏の母である尹氏は、初め何進の息子に嫁いで何晏を儲け、その後で曹操の側室になった(魚豢〈ぎょかん〉の『魏略〈ぎりゃく〉』には、曹操が司空〈しくう〉だったとき〈196~208年〉のことだとある)ということなのです。

その際、尹氏の連れ子として何晏も曹操に引き取られ、曹丕らとともに宮中で育ったというのが実情。

結論としては「何晏と金郷公主は同母兄妹ではない」と。何晏の父は何進の息子、母は尹氏。金郷公主の父は曹操、母は杜氏になります。

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