【姓名】 孔桂(こうけい) 【あざな】 叔林(しゅくりん)
【原籍】 天水郡(てんすいぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
佞倖(ねいこう。こびへつらうこと)に栄光なし
父母ともに不詳。
建安(けんあん)年間(196~220年)の初め、孔桂は将軍の楊秋(ようしゅう)の使者としてたびたび曹操(そうそう)のもとへ遣わされた。そのため曹操の上表により、騎都尉(きとい)に任ぜられる。
孔桂はこびへつらうことで人の機嫌を取り、博弈(ばくえき。賭け事)や蹴鞠(けまり)が上手だったので、いつも曹操のそばにいて外出のお供をした。
そして曹操の機嫌が良いときを見計らい、話のついでにこまごまと意見を述べた。その多くは採用され、よく金品を賜ったという。
ほかの者からの贈り物もあったので、孔桂は立派な衣服を身に着け、ごちそうを食べていた。
曹操が孔桂を寵愛すると、五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう。211~217年)の曹丕(そうひ)や諸侯も彼と親しくした。
後に孔桂は、なかなか曹操が王太子を立てないのは、意中に臨菑侯(りんしこう。214~221年)の曹植(そうしょく)があるからだと察する。
そこで孔桂は改めて曹植と親しくし、曹丕をおろそかにするようになった。曹丕はこのことをひどく根に持つ。
220年1月、曹操が崩じ、跡を継いだ曹丕が同年10月に帝位に即くと、孔桂は駙馬都尉(ふばとい)に任ぜられる。
ところが、孔桂が西域(せいいき)の者から賄賂を受け取り、人事で便宜を図ろうとしたことが発覚。詔(みことのり)により逮捕され、尋問を受けて死んだ(時期は不明)。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。
この『魏略』では、孔桂が秦朗(しんろう)とともに「佞倖編」に収録されていることに触れていました。
曹操は、孔桂のようなタイプをまったく寄せつけないのかと思っていましたが、よほど孔桂に佞倖の才能があったのでしょう。曹操の意外な一面を見た気がします。
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