曹琬(そうえん) ※魏(ぎ)の豊恭王(ほうきょうおう)

【姓名】 曹琬(そうえん) 【あざな】 ?

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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曹均(そうきん)の息子、豊恭王(ほうきょうおう)

父は曹均だが、母は不詳。曹抗(そうこう)は兄で曹敏(そうびん)は弟。息子の曹廉(そうれん)は跡継ぎ。

222年、曹琬は197年に戦死した曹昂(そうこう)の跡継ぎとして立てられ、中都公(ちゅうとこう)に封ぜられた。そして同年中に長子公(ちょうしこう)に移封された。

224年、曹昂の諡号(しごう)が豊悼公(ほうとうこう)から豊悼王(ほうとうおう)と改められ、さらに229年には豊愍王(ほうびんおう)と改められた。

254年、曹琬が曹昂の爵位を継ぐ形で豊王(ほうおう)に封ぜられた。正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、2,700戸となった。

曹琬が薨去(こうきょ)すると恭王の諡号を追贈され、息子の曹廉が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・張繡伝〈ちょうしゅうでん〉)には、「200年に張繡が賈詡(かく)の計に従って再び曹操(そうそう)に降伏した際、曹操は張繡の手を取って喜び、歓迎の宴会を催したうえ、張繡の娘を息子の曹均の妻に迎え、張繡に揚武将軍(ようぶしょうぐん)の位を授けた」とありました。

ですが、ここは引っかかるところ。197年の曹昂の戦死は、曹操の張繡討伐に付き従ったことによるものです。その後、222年になり、曹均の息子の曹琬が(曹昂の)跡継ぎとして立てられたのです。

曹昂にとっては敵(かたき)とも言えるのが張繡。しかし、張繡の娘が曹均の妻なら、曹琬は彼女が生んだ息子ということもあり得えます。

もしそのような背景があれば、曹昂の跡継ぎとして立てられるものでしょうか? 曹琬を生んだのは曹均の別の妻かもしれません。

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