徐奕(じょえき)

【姓名】 徐奕(じょえき) 【あざな】 季才(きさい)

【原籍】 東莞郡(とうかんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・徐奕伝』あり。

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寵臣に迎合せず、曹操(そうそう)から高く評価された忠誠心

父母ともに不詳。

徐奕は戦乱を避けて江東(こうとう)へ移り、孫策(そんさく)から手厚く招かれる。しかし彼は姓名を変え、目立たぬ服装で郷里に帰った。

196年、曹操が司空(しくう)になると、徐奕は召しを受け掾属(えんぞく。属官)に任ぜられる。

211年、曹操の馬超(ばちょう)討伐に付き従った後、丞相長史(じょうしょうちょうし)として長安(ちょうあん)にとどまり関中(かんちゅう)を鎮撫(ちんぶ)した。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

のち雍州刺史(ようしゅうのしし)を経て東曹(とうそう)の属官に復す。曹操の寵愛を受けていた丁儀(ていぎ)らは徐奕を陥れようとしたが、彼はまったく動揺しなかった。ほどなく魏郡太守(ぎぐんのたいしゅ)として転出。

翌212年、曹操が孫権(そんけん)討伐のため濡須(じゅしゅ)へ赴くと、徐奕は留府長史(りゅうふちょうし)として留守を預かった。

翌213年、魏国が建てられると尚書(しょうしょ)に任ぜられ、官吏の選抜を主宰。のち尚書令(しょうしょれい)に昇進する。

219年、曹操が漢中(かんちゅう)を討伐していた間に魏諷(ぎふう)らが謀反を企んだことから、中尉(ちゅうい)の楊俊(ようしゅん)は責任を問われて左遷された。そこで桓階(かんかい)の推薦により、徐奕が代わって中尉に任ぜられる。

ところが就任から数か月で重い病にかかり、退官を願い出て諫議大夫(かんぎたいふ)に転じ、その後に亡くなった(時期は不明)。

徐奕には息子がいなかったものの、曹丕(そうひ)の時(220~226年)に詔(みことのり)が下される。そして族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)の徐統(じょとう)が郎(ろう)に任ぜられ、徐奕の跡継ぎとされた。

管理人「かぶらがわ」より

曹操が徐奕を留府長史に転任させた際の言葉。

「きみの忠誠には古人も及ばないが、きみはいささか厳しすぎる。むかし(魏の)西門豹(せいもんほう。戦国〈せんごく〉時代の鄴県令〈ぎょうけんのれい〉)は、なめした皮を腰に下げて(その柔軟さを思い出し、)自己の厳しさを抑えた」

「きみに期待するのは、よく柔弱をもって剛強を制することである。きみに留守のことを任せておけば、私には後顧の憂いはない」

羽振りがよかった丁儀を見せかけの人物と見抜き、それに迎合しなかった態度はもちろん立派ですけど、徐奕ほど厳格な人は、おおよそ他人に対しても厳格すぎるきらいがあります。

曹操自身が異能の持ち主だったため、補佐する宰相をそれほど必要としませんでしたが、徐奕の留府長史や中尉といった官職への起用は、よく長所を見極めたものだと思います。

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魏の重臣 人物データ
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