【姓名】 邢顒(けいぎょう) 【あざな】 子昂(しこう)
【原籍】 河間郡(かかんぐん)鄚県(ばくけん)
【生没】 ?~223年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・邢顒伝』あり。
曹操(そうそう)の後継者問題で適切な助言
父母ともに不詳。息子の邢友(けいゆう)は跡継ぎ。
邢顒は孝廉(こうれん)に挙げられて司徒(しと)の召命を受けたものの、いずれにも応じなかった。
200年ごろ、姓とあざなを変えて右北平(ゆうほくへい)へ赴き、田疇(でんちゅう)の客となる。
205年、曹操が冀州(きしゅう)を平定。その法が厳正だと聞くと、邢顒は田疇に別れを告げて郷里へ帰った。
そして曹操と会い、自分が先導して柳城(りゅうじょう)を討ち破りたいと願い出、冀州従事(きしゅうじゅうじ)に任ぜられた。
後に邢顒が広宗県長(こうそうけんちょう)を務めていたとき、旧知の将軍の喪を理由に官を捨てる。担当官吏から告発されたが、曹操は問題にしなかった。
そのうち改めて司空掾(しくうえん)として召され、次いで行唐県令(こうとうけんれい)に任ぜられる。
★曹操が司空を務めていた期間は196~208年。
邢顒は県民に農耕や養蚕(ようさん)を奨励し、教化も大いに行き渡ったという。
中央に戻って丞相門下督(じょうしょうもんかとく)となり、やがて左馮翊(さひょうよく。左馮翊の長官)に昇進したが、病のために官を去った。
★曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。
当時、曹操の息子たちが盛んに属官を選抜しており、曹操の命には「侯家の役人は法や制度を深く理解している点で、邢顒のような者を取り立てるべきだ」とあった。
邢顒は平原侯(へいげんこう。211~214年)の曹植(そうしょく)の家丞(かじょう)を務めることになる。
しかし、彼は礼をもって物事にあたり、曹植の言いなりにならない。そのためふたりの仲はうまくいかなくなった。
庶子(しょし。諸侯の家に置かれた官名)の劉楨(りゅうてい)は書簡をもって曹植を諫め、賢者である邢顒の扱いが粗略なことを不安視した。
後に邢顒は参丞相軍事(さんじょうしょうぐんじ)となり、東曹掾(とうそうえん)に転ずる。
それ以前のこと、まだ太子が定まっておらず、臨菑侯(りんしこう。214~221年)の曹植が寵愛されていた。
丁儀(ていぎ)らは曹植の美点を宣伝したが、邢顒は同調せず、曹操に賢察を求める意見を述べる。
217年、曹丕(そうひ)が王太子に立てられると、邢顒は太子少傅(たいししょうふ)となり、後に太子太傅(たいしたいふ)に昇進した。
220年、曹丕が帝位に即くと、邢顒は侍中(じちゅう)・尚書僕射(しょうしょぼくや)となり、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。
そのうち外部に出て司隷校尉(しれいこうい)を務めた後、太僕(たいぼく)に昇進する。
そして223年に死去し、息子の邢友が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
日ごろから自分の言動にブレがなければ、さほどのことはないのでしょうけど……。このあたりで採り上げられている人物は、曹操の後継者問題での発言や対応が、その後の命運を左右した観があります。
邢顒の場合は実際に曹植に仕えた時期もあったわけで――。兄の曹丕を退けて弟の曹植が王太子になると、どうなってしまうのか? その後の展開がしっかりと読めていたようですね。
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