王允(おういん) ※あざなは子師(しし)

【姓名】 王允(おういん) 【あざな】 子師(しし)

【原籍】 太原郡(たいげんぐん)祁県(きけん)

【生没】 137~192年(56歳)

【吉川】 第019話で初登場。
【演義】 第003回で初登場。
【正史】 登場人物。

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呂布(りょふ)を手なずけ、董卓(とうたく)誅殺を果たす

父母ともに不詳。王晨(おうしん)と王淩(おうりょう)は甥(ふたりとも兄の息子だという)。

192年4月、司徒(しと)を務めていた王允は、尚書僕射(しょうしょぼくや)の士孫瑞(しそんずい)らとともに呂布を抱き込み、董卓の誅殺に成功した。

しかし同年5月、李傕(りかく)や郭汜(かくし)らが、董卓の復讐(ふくしゅう)と称して長安(ちょうあん)へ攻め寄せ、わずか10日で陥落させる。

翌6月に王允は処刑され、その屍(しかばね)が市場にさらされた。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』には王允の伝が立てられていないため、その事績もごく断片的なものしか拾えませんでした。

一方で范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』には彼の伝が立てられており、『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)などを見ると、そちらにはもう少し具体的な記事があるようです。

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・董卓伝)に付された「李傕伝」および「郭汜伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張璠(ちょうはん)の『漢紀(かんき。後漢紀〈ごかんき〉)』によると、優れた見識を持っていた名士の郭泰(かくたい)は、王允を見て高く評価し、「きみは1日に1千里を行く名馬のような人だ。天子(てんし)を補佐する才能を持っている」と言ったそうです。

郭泰のほうが先輩でしたが、こうして王允と親交を結んだのだとか。

また、王允は三公のいずれからも属官として招聘(しょうへい)されるほどの人物で、豫州刺史(よしゅうしし)を務めていたときには、荀爽(じゅんそう)や孔融(こうゆう)を召し寄せて従事(じゅうじ)に取り立てています。

やがて王允は司徒となって(190年2月のこと)帝室を支えましたが、「そのやり方がすこぶる節義にかなっていたため、献帝(けんてい)をはじめ、みな彼を頼りにしていた。董卓もまた王允を敬い、信頼を寄せ、朝廷の政治を任せていた」ともありました。

なお、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)の裴松之注に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』によると、「王允が処刑された後、その遺骸にあえて近づく者がいなかったとき、平陵県令(へいりょうけんれい)の趙戩(ちょうせん)が、官を捨てて遺骸を収容した」とのことでした。

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