衛瓘(えいかん)

【姓名】 衛瓘(えいかん) 【あざな】 伯玉(はくぎょく)

【原籍】 河東郡(かとうぐん)安邑県(あんゆうけん)

【生没】 ?~291年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第116回で初登場。
【正史】 登場人物。

蜀(しょく)討伐に従軍し、トウ艾(とうがい。登+阝)の死にも大きく関わるが……

父は衛覬(えいき)だが、母は不詳。衛恒(えいこう)という息子がいた。

衛瓘は衛覬が死去(時期は不明)するとその跡を継ぎ、「閺郷侯(ぶんきょうこう)?」に封ぜられた。

20歳で「尚書郎(しょうしょろう)」となり、のち内外の官職を歴任。曹芳(そうほう)の時代(240~254年)には「侍郎(じろう。中書侍郎〈ちゅうしょじろう〉?)」を務めた。

263年秋、曹奐(そうかん)の詔(みことのり)が下り、征西将軍(せいせいしょうぐん)のトウ艾と雍州刺史(ようしゅうしし)の諸葛緒(しょかつしょ)が3万余ずつの軍勢をひきいて出撃。

トウ艾は甘松(かんしょう)や沓中(とうちゅう)で蜀の姜維(きょうい)と全面的に対峙(たいじ)し、諸葛緒は武街(ぶがい)や橋頭(きょうとう)へ向かい、姜維の退路を断つことになった。このとき鍾会(しょうかい)も別に10余万の軍勢をひきい、斜谷(やこく)や駱谷(らくこく)から蜀の地へと進む。

同年10月、トウ艾が雒(らく)まで進軍したところ、蜀の劉禅(りゅうぜん)が降伏。

同年11月、トウ艾が成都(せいと)へ入城し専断権を発動。劉禅を始め蜀の官僚にも、官位の高下に従って魏(ぎ)の官職を授けたり、自分の属官に取り立てたりした。

同年12月、トウ艾は「太尉(たいい)」に昇進したが、このまま呉(ご)も討伐すべきだとの主張を続ける。そこで「監軍(かんぐん)」として従軍した衛瓘が、司馬昭(しばしょう)の言葉を伝え戒めた。

それでもトウ艾は考えを変えず、鍾会・胡烈(これつ)・師纂(しさん)らから、トウ艾の行いは反逆にあたると上言されてしまう。

翌264年1月、これを受けて詔が下されると、トウ艾父子は囚人護送車で洛陽(らくよう)へ送られることになった。

だが司馬昭は、トウ艾が命令に従わないかもしれないと心配。鍾会に成都まで軍を進めさせる一方、衛瓘に直筆の命令書を送って先行させ、トウ艾軍を説諭させる。こうして兵たちが武器を捨てたので、衛瓘はトウ艾らを逮捕することができた。

鍾会はトウ艾を送り出した後で反乱を起こしたが、ほどなく討たれる。すると、トウ艾の配下にあった将兵は囚人護送車を追いかけてトウ艾を救い出す。

それでも、衛瓘が護軍(ごぐん)の田続(でんしょく)らにトウ艾の討伐を命じたため、トウ艾は緜竹(めんちく)の西で斬られ、息子のトウ忠(とうちゅう)とともに死んだ。

衛瓘は「鎮西将軍」を経て、晋代(しんだい)に入ると「尚書令(しょうしょれい)」「司空(しくう)」「太保(たいほ)」と昇進を重ね、政治を補佐する。

291年、衛瓘は権力争いに巻き込まれた末、汝南王(じょなんおう)の司馬亮(しばりょう)ともども、楚王(そおう)の司馬瑋(しばい)によって誅殺された。

管理人「かぶらがわ」より

(『三国志』では)登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

唐代(とうだい)に編纂(へんさん)された『晋書(しんじょ)』には「衛瓘伝」があるようですけど……。その内容を比較検討できていないため、この記事も中途半端なものになってしまいました。

『晋書』のほうでは鍾会の反乱が失敗に終わるまでの経緯について、衛瓘の関わり方に異なる描写があるらしい。何でも詰め込めばいいわけではないですが、いずれ手直しできればいいなと思います。事績が晋代にかかっている人物については扱い方が難しいですね。

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