【姓名】 閻行(えんこう) 【あざな】 彦明(げんめい)
【原籍】 金城郡(きんじょうぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
馬超(ばちょう)を討ち取っていたかもしれない勇士
父母ともに不詳。妻は韓遂(かんすい)の娘だった。
閻行は少年のころから勇敢さをもって評判が高く、韓遂の部将として付き従う。
196年、韓遂と馬騰(ばとう)が対立し、互いに攻め合うようになる。
馬騰の息子の馬超も武勇の評判が高かったが、閻行は彼と闘い、討ち取る寸前まで追い詰めたこともあった。
翌197年、司隷校尉(しれいこうい)の鍾繇(しょうよう)と涼州牧(りょうしゅうぼく)の韋端(いたん)の説得を受け、韓遂と馬騰が和解する。
209年、閻行が韓遂の使者として鄴(ぎょう)の曹操(そうそう)を訪ねると、曹操の上表により犍為太守(けんいたいしゅ)に任ぜられる。
閻行は、父を宮中の警護に加えてほしいと願い出たうえで韓遂のもとへ戻り、曹操に従うよう勧めた。
韓遂は様子を見たいと思ったが、ほどなく自分の息子と閻行の父母を遣ることにした。
この年、武威太守(ぶいたいしゅ)の張猛(ちょうもう)が背き、涼州刺史(りょうしゅうしし)の邯鄲商(かんたんしょう)を殺害する。
翌210年、韓遂が張猛の討伐に向かい、閻行は残って留守を預かる。
このころ馬超が反逆を企み、韓遂を都督(ととく)に立てて手を結ぼうとした。
閻行は諫めたものの聞き入れられず、翌211年、韓遂は華陰(かいん)まで進軍する。
同年9月、韓遂と馬超らが曹操と戦って敗走すると、閻行は韓遂とともに金城へ帰った。
翌212年、曹操は都にいた馬騰ら一族、さらに韓遂の息子や孫を処刑する。ただ、以前に閻行の思いを聞いていたため、彼の父母は助けおく。
韓遂は閻行の父が生きていると聞き、彼を曹操に処刑させることにより、閻行の気持ちが揺らがないよう計る。
そこで閻行に自分の末娘を無理に娶(めあわ)せたところ、やはり曹操は閻行に疑念を持った。
後に閻行は韓遂の命を受け、西平(せいへい)を治めることになる。
この機に乗じた閻行は配下をひきい、湟中(こうちゅう)で韓遂と戦って敗れ、家族を連れ曹操のもとへ逃れた。曹操は上奏し、閻行を列侯(れっこう)に封じたという。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。
閻行の名は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・張既伝〈ちょうきでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』および魚豢の『魏略(ぎりゃく)』にのみ見えています。
このうち『魏略』のほうには、後に閻行が艶(えん)と改名した、という記事もありました。
閻行は戦場で馬超を追い詰めたこともあったそうですが、曹操に仕えた後の事績がわからないのは残念ですね。
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