196年(漢の建安元年)の主な出来事

-196年- 丙子(へいし)
【漢】 建安(けんあん)元年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】「漢(かん)の改元」
癸酉(きゆう)の日(7日)
献帝が安邑県(あんゆうけん)で上帝(じょうてい)を祭り、大赦を行ったうえ、「興平(こうへい)」を「建安」と改元する。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

【01月】
曹操(そうそう)が武平(ぶへい)を攻め、袁術(えんじゅつ)に任命された陳国相(ちんこくのしょう)である袁嗣(えんし)が降伏する。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

【02月】
曹操が軍を進め、汝南(じょなん)・潁川(えいせん)の両郡の黄巾(こうきん)である何儀(かぎ)・劉辟(りゅうへき)・黄邵(こうしょう)・何曼(かまん)らを撃破。劉辟や黄邵らは斬られ、何儀は配下の兵とともに降伏した。献帝は曹操を建徳将軍(けんとくしょうぐん)に任じた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【02月】
韓暹(かんせん)が衛将軍(えいしょうぐん)の董承(とうしょう)を攻める。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
袁術と劉備(りゅうび)が徐州(じょしゅう)を争う。この争いに劉備が敗れたあと、呂布(りょふ)が徐州牧(じょしゅうのぼく)を称する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【06月】
曹操が鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)に昇進し、費亭侯(ひていこう)に封ぜられる。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【06月】
乙未(いつび)の日(1日)
献帝が聞喜県(ぶんきけん)に行幸する。
『後漢書』(献帝紀)

【07月】「献帝の洛陽(らくよう)還幸」
楊奉(ようほう)と韓暹が献帝を擁して洛陽に帰る。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
楊奉・韓暹・董承が献帝を擁してもとの都(洛陽)へ立ち戻ったものの、食糧が欠乏していた。張楊(ちょうよう)が食糧を用意して道中で出迎え、一行は何とか洛陽にたどり着いた。
『三国志』(魏書・張楊伝)

⇒?月
献帝が洛陽に還幸した当初、城の西にあったもとの中常侍(ちゅうじょうじ)である趙忠(ちょうちゅう)の屋敷に行幸する。また、献帝は張楊に宮室の修理を命じ、その宮殿を揚安殿(ようあんでん)と名付けた。そして8月に移り住んだ。
『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』

⇒07月
甲子(こうし)の日(1日)
献帝の車駕(しゃが)が洛陽に入り、もとの中常侍である趙忠の屋敷に行幸する。
『後漢書』(献帝紀)

【07月】
丁丑(ていちゅう)の日(14日)
献帝が上帝を祭り、再び大赦を行う。
『後漢書』(献帝紀)

【07月】
己卯(きぼう)の日(16日)
献帝が太廟(たいびょう。天子〈てんし〉の祖廟〈そびょう〉)に拝謁する。
『後漢書』(献帝紀)

【08月】
辛丑(しんちゅう)の日(8日)
献帝が南宮の楊安殿に行幸する。
『後漢書』(献帝紀)

上の7月にある『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注に引く『献帝春秋』では揚安殿とあった。揚と楊は別字だが、ほかにも揚雄(ようゆう)と楊雄など同じような用例が見られる。

【08月】
癸卯(きぼう)の日(10日)
献帝が、安国将軍(あんこくしょうぐん)の張楊を大司馬(だいしば)に、韓暹を大将軍(だいしょうぐん)に、楊奉を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に、それぞれ任ずる。

このころ宮室はみな焼け落ちたままで、百官はいばらを切り払い、垣根に寄り添って雨露をしのいでいた。州郡はそれぞれ強兵を擁しており、年貢を運ぶ車も来なかった。群僚は飢餓に苦しみ、尚書郎(しょうしょろう)以下の者は自らリョ(禾+呂。野生の稲)を採取したが、ある者は牆壁(しょうへき)の間で餓死し、ある者は兵士に殺されるというありさまだった。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「リョ(禾+呂)の音は『呂(りょ)』である。『埤倉(ひそう)』に『穭は自生する』とあり、『リョ』と『穭(りょ)』は同じ字である」という。

【?月】
楊奉が韓暹と別れて梁(りょう)に駐屯する。その後、曹操が洛陽に入ると、残っていた韓暹も逃げた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
献帝が、曹操に節鉞(せつえつ)を貸し与えたうえ録尚書事(ろくしょうしょじ)とする。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
また、曹操は司隷校尉(しれいこうい)も担当した。
『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注に引く『献帝紀』

⇒08月
辛亥(しんがい)の日(18日)
鎮東将軍の曹操が自ら領司隷校尉(りょうしれいこうい)に就任し録尚書事となる。
『後漢書』(献帝紀)

⇒08月
献帝が曹操を領司隷校尉・仮節鉞(かせつえつ)・録尚書事に任ずる。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【08月】
曹操が、侍中(じちゅう)の台崇(たいすう)や尚書(しょうしょ)の馮碩(ふうせき)らを殺害する。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「『風俗通(ふうぞくつう)』に、『金天氏(きんてんし)の末孫を臺駘(たいたい。台駘)といい、その後裔は臺を姓とした』とある。『山陽公載記(さんようこうさいき)』は臺の字を壷(こ)の字に作る」という。

【08月】
献帝が、衛将軍の董承や輔国将軍(ほこくしょうぐん)の伏完(ふくかん)ら13人を列侯(れっこう)に封じ、先に東澗(とうかん)で戦死した沮儁(しょしゅん)に弘農太守(こうのうのたいしゅ)(の印綬〈いんじゅ〉)を追贈する。
『後漢書』(献帝紀)

⇒?月
この年、伏完は輔国将軍に任ぜられ、その儀礼は三公と同様のものとされた。伏完は政権が曹操の掌中にあるため、自ら外戚として尊重されることを嫌い、印綬を返還して中散大夫(ちゅうさんたいふ)に任ぜられ、その後は屯騎校尉(とんきこうい)に転じた。
『後漢書』(伏皇后紀〈ふくこうごうき〉)

【08月】「許(きょ)への遷都」
庚申(こうしん)の日(27日)
献帝が許に遷都することを決める。
『後漢書』(献帝紀)

『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると「献帝は(洛陽から許に)遷都し、(許を)『許昌(きょしょう)』と改めた」という。

【09月】
己巳(きし)の日(7日)
献帝が曹操の陣営に行幸する。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】
曹操が許への遷都を決行。献帝の御車(みくるま)は轘轅(かんえん)を出て東に向かう。曹操は大将軍に任ぜられ武平侯(ぶへいこう)に封ぜられた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
楊奉が駐屯していた梁から出て、献帝の一行をさえぎろうとしたものの間に合わなかった。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【09月】
献帝が太尉(たいい)の楊彪(ようひゅう)と司空(しくう)の張喜(ちょうき)を罷免する。
『後漢書』(献帝紀)

【10月】
曹操が楊奉を討伐する。楊奉は南方の袁術のもとに奔ったが、曹操はそのまま梁にある楊奉の屯営を攻め落とした。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【10月】
献帝が袁紹(えんしょう)を太尉に任ずる。しかし、袁紹は曹操の下に置かれることを恥辱だと考え受けなかった。そこで曹操は大将軍を袁紹に譲り、新たに司空に就任したうえ車騎将軍を兼務することにした。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
献帝は袁紹を太尉に任じたが、さらに改めて大将軍とし、鄴侯(ぎょうこう)に取り立てた。袁紹は鄴侯の爵位については辞退して受けなかった。
『三国志』(魏書・袁紹伝〈えんしょうでん〉)

⇒11月
丙戌(へいじゅつ)の日(25日)
曹操が自ら司空・行車騎将軍事(こうしゃきしょうぐんじ)に就任する。漢の百官は、それぞれが(漢臣としての)職責を負いつつ、曹操の指示に従うことになった。
『後漢書』(献帝紀)

⇒10月
曹操が自ら司空に就任し、荀彧(じゅんいく)を侍中に、荀攸(じゅんゆう)を軍師(ぐんし)に、郭嘉(かくか)を司空祭酒(しくうさいしゅ)に、それぞれ任ずる。
『正史 三国志8』の年表

【?月】
呂布が劉備を襲撃して下邳(かひ)を奪う。このため劉備は曹操のもとに身を寄せた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
呂布に敗れた劉備が曹操のもとに身を寄せる。曹操は劉備が豫州牧(よしゅうのぼく)に任ぜられるよう取り計らった。
『正史 三国志8』の年表

⇒06月
劉備が曹操のもとに身を寄せる。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄著 潮書房光人社)の『三国志』年表

【?月】
張済が関中(かんちゅう)から南陽(なんよう)に逃走する。この張済が亡くなると、その従子(おい)の張繡(ちょうしゅう)が軍勢を引き継いだ。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
張済が荊州(けいしゅう)に入ったあと穣城(じょうじょう)で戦死する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表

【?月】「曹操の『屯田制(民屯)』実施」
この年、曹操が棗祗(そうし)や韓浩(かんこう)らの意見を採用し、初めて「屯田制(民屯)」を実施した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
この年、孫策(そんさく)が会稽太守(かいけいたいしゅ)の王朗(おうろう)を討伐して会稽を手中にし、代わって会稽太守を称した。
『正史 三国志8』の年表

194年末の『後漢書』(献帝紀)およびその李賢注との兼ね合いがわかりにくい。194年に孫策が劉繇を討ち破ったあと、長江(ちょうこう)を渡って江東(こうとう)で戦い続け、この年(196年)に会稽まで攻略したという解釈だろうか?

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190年代 正史年表
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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