-197年- 丁丑(ていちゅう)
【漢】 建安(けんあん)2年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
曹操(そうそう)が宛(えん)に赴く。張繡(ちょうしゅう)は曹操に降伏したが、後になって悔やみ、再び背いた。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)
【?月】
曹操が張繡と戦って敗れ、自身も流れ矢で負傷。長男の曹昂(そうこう)と弟の子の曹安民(そうあんみん)が戦死した。曹操は兵をひきいて舞陰(ぶいん)に戻った。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【?月】
張繡が、騎兵をひきいて曹操を攻めたものの撃破される。張繡は穣(じょう)に奔り、劉表(りゅうひょう)と連合した。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【?月】
袁術(えんじゅつ)が、淮南(わいなん)で帝号を称(とな)えたいと考え、呂布(りょふ)のもとに使者を遣わし、その旨を伝える。しかし呂布は使者を捕らえ、朝廷に書簡を奉った。袁術は立腹して呂布を攻めたが、討ち破られた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【春】「袁術の皇帝僭称(せんしょう)」
袁術が天子(てんし)を自称する。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)
⇒春
袁術が、寿春(じゅしゅん)で帝位を僭称する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)の『三国志』年表
【03月】
袁紹(えんしょう)が、自ら大将軍(だいしょうぐん)に就任する。
『後漢書』(献帝紀)
★昨年(196年)10月の『三国志』(魏書・武帝紀)および『三国志』(魏書・袁紹伝)の記事との兼ね合いがわかりにくい。昨年10月の時点で袁紹が大将軍に就任したのかと思っていたが、時期的な揺れがあるようだ。
【05月】
蝗(イナゴ)の被害が出る。
『後漢書』(献帝紀)
★ここでは具体的な場所についての記述はなかった。
【09月】
袁術が陳(ちん)に侵攻。曹操が征伐に乗り出し、東方に赴く。
袁術は軍を捨てて逃げ、配下の橋蕤(きょうずい)・李豊(りほう)・梁綱(りょうこう)・楽就(がくしゅう)を留める。曹操は到着後、橋蕤らを撃破してみな斬り殺した。袁術は淮水(わいすい)を渡って逃げ、曹操は許(きょ)に帰還した。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【09月】
漢水(かんすい)が氾濫する。
『後漢書』(献帝紀)
【?月】
曹操が舞陰から許に帰るなり、南陽(なんよう)や章陵(しょうりょう)の諸県が再び曹操に背き、張繡に味方する。
曹操は、曹洪(そうこう)を遣わして攻めさせたものの、勝つことができず。曹洪は引き返して葉(しょう)に駐屯したが、しばしば張繡や劉表の攻撃を受けた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【11月】
曹操が自ら南征に赴き、宛まで進む。曹操は、劉表配下の鄧済(とうせい)が守る湖陽(こよう)を攻め、鄧済を生け捕りにして湖陽を降し、さらに舞陰も攻め落とした。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【?月】
曹操が、謁者僕射(えっしゃぼくや)の裴茂(はいぼう)を遣わして関西(かんぜい。函谷関〈かんこくかん〉以西の地域)の諸将を統率させ、李傕(りかく)の討伐を命ずる。李傕は処刑され、その三族も皆殺しにされた。
『三国志』(魏書・董卓伝〈とうたくでん〉)に付された「李傕・郭汜伝(かくしでん)」
★『後漢書』(献帝紀)では、この件が翌年(198年)4月の記事に見える。
⇒?月
李傕が裴茂によって敗死し、郭汜も部下によって殺害される。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄著 光人社)の『三国志』年表
【?月】
この年、飢饉(ききん)のため、長江(ちょうこう)から淮水にかけての地域の民が、互いに食らい合った。
『後漢書』(献帝紀)
【?月】
この年、袁術が、陳王(ちんおう)の劉寵(りゅうちょう)を殺害した。
『後漢書』(献帝紀)
【?月】
この年、孫策(そんさく)が朝廷に使者を遣わし、貢ぎ物を献じた。
『後漢書』(献帝紀)
【?月】
この年、孫策が、帝号を僭称した袁術に絶縁状を送りつけ、江東(こうとう)で独立した。
『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)の関連略年表
特記事項
「この年(197年)に亡くなったとされる人物」
郭汜(かくし)・曹安民(そうあんみん)・曹昂(そうこう)・典韋(てんい)・李傕(りかく)?
★李傕について、『後漢書』(献帝紀)では翌年(198年)の記事に見える。
「この年(197年)に生まれたとされる人物」
陳脩(ちんしゅう)?
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