198年(漢の建安3年)の主な出来事

-198年- 戊寅(ぼいん)
【漢】 建安(けんあん)3年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
曹操(そうそう)が許(きょ)に帰還し、初めて軍師祭酒(ぐんしさいしゅ)の官を設置する。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

【03月】
曹操が、穣(じょう)で張繡(ちょうしゅう)を包囲する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【04月】「李傕(りかく)の死」
献帝が、謁者(えっしゃ)の裴茂(はいぼう)を遣わし、中郎将(ちゅうろうしょう)の段煨(だんわい)をひきいて李傕の討伐を命じ、李傕とその三族を皆殺しにする。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

李賢注(りけんちゅう)によると「『献帝起居注(けんていききょちゅう)』に、『(このとき)李傕の首を伝えて許昌(きょしょう)に送り、詔(みことのり)によってこれを高々とさらさせた』とある」という。

『三国志』(魏書・董卓伝〈とうたくでん〉)に付された「李傕・郭汜伝(かくしでん)」では、この件が昨年(197年)の記事に見える。

【04月】
呂布(りょふ)が反乱を起こす。
『後漢書』(献帝紀)

【04月】
袁紹(えんしょう)が、曹操に鄄城(けんじょう)への遷都を求めたものの拒否される。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【05月】
劉表(りゅうひょう)が、張繡を救援するために兵を出し、曹操軍の背後を絶つ。曹操は引き揚げようとしたが、張繡の兵が後ろに迫ったため、陣営を連ねて少しずつ進んだ。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
張繡が、安衆(あんしゅう)で劉表の兵と合流し、曹操軍を挟撃する形を取る。

曹操は、夜中に要害の地に穴を掘らせて地下道を造り、輜重(しちょう)を通したうえで奇襲の軍を伏せた。

夜が明けると、張繡らは曹操が逃走したと思い込み、全軍を挙げて追撃にかかる。だが、曹操が伏せていた兵により、散々に討ち破られた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【07月】
曹操が許に帰還する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
呂布が再び袁術(えんじゅつ)に味方し、配下の高順(こうじゅん)に命じて劉備(りゅうび)を攻めさせる。曹操は、夏侯惇(かこうとん)を遣わして劉備を救援したが、劉備は高順に討ち破られた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【09月】
劉備が沛城(はいじょう)を失い、単身で逃亡する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【09月】
曹操が、呂布討伐のため自ら東に向かう。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【10月】
曹操が彭城(ほうじょう)を陥し、彭城国相(ほうじょうこくしょう)の侯諧(こうかい)を捕らえる。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
曹操が下邳(かひ)まで進撃する。呂布は、自ら騎兵をひきいて迎え撃ったものの敗れ、配下の勇将である成廉(せいれん)が捕虜になった。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
曹操が下邳の城下まで迫る。呂布は降伏を考えるが、陳宮(ちんきゅう)らに諫められ、「袁術に救援を要請したうえ、城を出て戦われますように」と勧められる。呂布は城を出て戦うが、またも敗れて城に引き返した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【11月】
大司馬(だいしば)の張楊(ちょうよう)が盗賊に殺害される。
『後漢書』(献帝紀)

張楊の死について、『三国志』(魏書・武帝紀)では翌年(199年)2月の記事に見える。

【?月】
曹操は下邳城を攻めたが、陥すことができず、連戦による士卒の疲弊ぶりを見て帰還しようと考える。

しかし荀攸(じゅんゆう)や郭嘉(かくか)が、「泗水(しすい)と沂水(ぎすい)を決壊させ、城を水攻めにされますように」と献策。曹操はこれを容れた。

ひと月余り後、呂布配下の宋憲(そうけん)と魏続(ぎしょく)らが陳宮を捕らえ、城を挙げて降伏した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】「呂布・陳宮の死」
曹操が、生け捕りにした呂布と陳宮を処刑する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒12月
癸酉(きゆう)の日(24日)
曹操が徐州(じょしゅう)の呂布を討伐し、これを斬る。
『後漢書』(献帝紀)

⇒12月
曹操が呂布を捕らえ、陳宮・高順らとともに斬る。その一方、張遼(ちょうりょう)は助命して配下に加えた。この結果、曹操は徐州も手にした。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表

【?月】
曹操が、呂布に従っていた泰山(たいざん)の臧霸(そうは)・孫観(そんかん)・呉敦(ごとん)・尹礼(いんれい)・昌豨(しょうき)らを捕虜にする。しかし曹操は彼らを厚遇し、青州(せいしゅう)・徐州の両州に海岸地帯を付けて割き、その統治を委ねた。

またこのとき、琅邪(ろうや)・東海(とうかい)・北海(ほっかい)を分割し、城陽(じょうよう)・利城(りじょう)・昌慮(しょうりょ)の3郡を設置した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

先の初平(しょへい)3(192)年の『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)に引く『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』に、3郡の設置についてはほぼ同様の内容が見られる。初平と建安で時期が違うのだが、どちらも3年の記事なので、一方が勘違いということもあり得るのか?

【12月】
曹操が献帝に上表し、孫策(そんさく)を討逆将軍(とうぎゃくしょうぐん)に任じ、呉侯(ごこう)に封ずるよう取り計らう。
『正史 三国志8』の年表

【?月】
この年、禰衡(でいこう)が、劉表配下の黄祖(こうそ)に殺害された。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(198年)に亡くなったとされる人物」
張楊(ちょうよう)?李傕(りかく)?呂布(りょふ)

「この年(198年)に生まれたとされる人物」
孫桓(そんかん)丁固(ていこ。丁密〈ていみつ〉)陸凱(りくかい)

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