孫桓(そんかん) ※あざなは叔武(しゅくぶ)

【姓名】 孫桓(そんかん) 【あざな】 叔武(しゅくぶ)

【原籍】 呉郡(ごぐん)

【生没】 198~223年(26歳)

【吉川】 第251話で初登場。
【演義】 第082回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫桓伝』あり。

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孫河(そんか)の息子

父は孫河だが、母は不詳。孫助(そんじょ)と孫誼(そんぎ)は兄で、孫俊(そんしゅん)は弟。

222年、孫桓は25歳で安東中郎将(あんとうちゅうろうしょう)に任ぜられ、陸遜(りくそん)とともに蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の東征軍を防ぐ。

このとき劉備軍には圧倒的な勢いがあり、その軍勢が山谷に満ちていた。孫桓は命を惜しまず武器を振るい、陸遜と力を合わせて戦ったため、劉備は何もできないまま敗走した。

孫桓は劉備を追撃し、夔城(きじょう)へ通ずる道を断って要所を封鎖した。

劉備は山中の険阻を越え、何とか白帝城(はくていじょう)へ逃げ込んだが、嘆息して言ったという。

「むかし(209年)朕が京城(けいじょう)へ行ったとき、まだ孫桓は小児(こわっぱ)にすぎなかった。その孫桓に、いまこのように追い詰められようとは――」

孫桓は功績を認められて建武将軍(けんぶしょうぐん)に任ぜられ、丹徒侯(たんとこう)に封ぜられた。

しかし翌223年、牛渚督(ぎゅうしょとく)となって長江(ちょうこう)を下り、横江(おうこう)に砦を築いていたとき急死した。まだ26歳だった。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、孫桓は端正な風貌を備えていたうえ、聡明かつ博学で、人との議論や応対に長けていたそうです。

いつも孫権は孫桓のことを、「帝族中の顔淵(がんえん。孔子〈こうし〉の弟子)だ」と言っていたほどで、武衛都尉(ぶえいとい)に抜てきしました。

「孫桓は(219年に)関羽(かんう)を華容(かよう)で討伐した作戦にも参加し、関羽の配下を説得して5千人を帰順させ、牛馬や兵器などを大量に鹵獲(ろかく)した」ともありました。

なお『三国志』(呉書・孫韶伝〈そんしょうでん〉)によると、「(孫桓の父の)孫河はもとの姓を愈氏(ゆし)といい、この愈氏は孫氏と同じ呉郡の人だった。孫策(そんさく)は愈河(ゆか。孫河)を寵愛し、孫姓を与えて一族の籍に加えた」ということです。

ただ、この「孫韶伝」の裴松之注に引く韋昭(韋曜)の『呉書』には内容の異なる記事もあり、「孫河は孫堅(そんけん)の族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)で、姑(おば)の愈氏の養子となったものの、後に孫姓に戻った」のだといいます。

どちらの話も決定打に欠けますが、もし孫河がもともと愈河だったのなら、孫河の息子はともかく、甥の孫韶まで孫姓を名乗れるのでしょうか?

孫韶の父(孫河の弟)の名は出てきませんが、愈河が孫策から孫姓を賜ったのだとしても、その弟や甥まで孫姓を名乗ったのだろうかということです。

孫河が愈氏の養子になっていた時期があり、後に孫姓に戻ったという話のほうが説得力があるように感じました。

しかし、この孫桓も20代での急死ですか……。孫氏の一門だから目立つだけかもしれませんけど、才能ある将軍の早世がやたら多いですよね。

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