楊俊(ようしゅん)A ※あざなは「季才(きさい)」

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【姓名】 楊俊(ようしゅん) 【あざな】 季才(きさい)

【原籍】 河内郡(かだいぐん)獲嘉県(かくかけん)

【生没】 ?~222年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・楊俊伝』あり。

人物鑑定に長ずるも、曹丕(そうひ)に恨まれて死す

父母ともに不詳。楊覧(ようらん)と楊猗(ようい)は孫。

楊俊は陳留(ちんりゅう)の辺譲(へんじょう)の下で学び、その才能を評価された。彼は兵乱が起こると、河内は交通の要衝であるため、この地が戦場になるに違いないと考える。そこで老若の者を助けつつ、京県(けいけん)と密県(みつけん)一帯の山中へ移った。

これに100余軒の人々が同行すると、楊俊は貧しい者を救い、互いに連絡を取り合う。親族や友人のうち、連れ去られ奴僕になった者が6軒あったので、彼は家財を傾けて買い戻した。

楊俊は16、7歳(194~195年)の司馬懿(しばい)と会った際、「並の人物ではない」と評価する。

また、司馬懿の兄の司馬朗(しばろう)は早くから名声があったものの、族兄(いとこ。一族の同世代の年長者)の司馬芝(しばし)のほうは名を知られていなかった。

ただ、楊俊だけはこう言っていた。

「司馬芝は早くから名を上げたことでは司馬朗に及ばないが、実質ではずっと優れているぞ」

のち楊俊は幷州(へいしゅう)へ避難する。

同郡の王象(おうしょう)は幼いころに両親を亡くし、他家の奴隷となった。17、8歳になると、羊飼いとして使役されながらもこっそり書物を読み、そのことから鞭(むち)や杖で打たれていた。

楊俊は才能や人柄を評価し、王象の身を買い戻して自分の家に引き取る。さらに彼のため嫁を迎え、家まで建てた。

やがて楊俊は曹操(そうそう)により「曲梁県長(きょくりょうけんのちょう)」に任ぜられる。次いで中央へ入って「丞相掾属(じょうしょうのえんぞく)」となり、茂才(もさい)に推挙された。

曹操が「丞相」を務めていた期間は208~220年。

のち「安陵県令(あんりょうけんのれい)」を経て「南陽太守(なんようのたいしゅ)」に昇進。道徳による教化を行き渡らせ、学校を建てたので、官民からたたえられた。やがて「征南軍師(せいなんぐんし)」に転任。

213年、魏が建国された後、楊俊は「中尉(ちゅうい)」に昇進する。

219年、曹操が劉備(りゅうび)討伐のため漢中(かんちゅう)へ出征している間に、西曹掾(せいそうえん)の魏諷(ぎふう)が鄴(ぎょう)で反乱を企てたことが発覚。

楊俊は「中尉」である自分の責任だと考えて行在所(あんざいしょ。天子〈てんし〉が行幸する際に使う仮の御殿)に出頭し、「平原太守(へいげんのたいしゅ)」に左遷された。

「中尉」は「執金吾(しつきんご)」の前身で、宮中の警備をつかさどった。

翌220年、曹丕が帝位に即くと、楊俊は再び「南陽太守」となる。

以前、まだ曹操が跡継ぎを決めていなかったころ、楊俊は臨菑侯(りんしこう。214~221年)の曹植(そうしょく)と仲が良かった。

曹操から内密に意見を求められると、楊俊は曹丕と曹植の優れた点を論じ、一方に加担することこそなかったものの、曹植のほうがより立派だとたたえたので曹丕の恨みを買った。

222年、曹丕が宛(えん)に行幸した際、随行の官吏に対し、郡県に迷惑をかけてはならないとの詔(みことのり)を下す。

宛県は南陽郡の郡治。

ところが宛県令は詔の趣旨を取り違え、市場の門を閉鎖してしまう。これを聞いた曹丕は、「朕(ちん)は盗賊なのか!」と言い腹を立て、宛県令とともに南陽太守の楊俊を逮捕した。

すると尚書僕射(しょうしょぼくや)の司馬懿に加え、散騎常侍(さんきじょうじ)の王象と荀緯(じゅんい)が楊俊の命乞いをする。彼らは顔を血に染めて叩頭(こうとう)したが、曹丕は許さなかった。

楊俊は罪をわきまえていると言って自殺。人々は冤罪(えんざい)と考えて悲しみ悼んだという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、楊俊は若いころから人物鑑定を自己の任としていたそうです。

同郡の審固(しんこ)と陳留の衛恂(えいじゅん)はふたりとも兵士の出身でしたが、楊俊は援助や推薦をします。その結果、のち審固は太守を歴任するまでになり、衛恂も「御史(ぎょし)」や「県令」を務めるほどになったのだとか。

司馬氏一族や王象など、数多くの才能を見抜いてきた楊俊でしたが、曹丕と曹植の評価、というか曹丕の性格判断は誤ったようです。人生、どこに落とし穴があるかわかりませんね。

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