陳泰(ちんたい)

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【姓名】 陳泰(ちんたい) 【あざな】 玄伯(げんぱく)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)許昌県(きょしょうけん)

【生没】 ?~260年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第107回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・陳羣伝(ちんぐんでん)』に付された「陳泰伝」あり。

曹髦(そうぼう)の死に際し号泣? 潁陰穆侯(えいいんのぼくこう)

父は陳羣だが、母は不詳。弟がいたことがうかがえるものの名は出てこない。息子の陳恂(ちんじゅん)は跡継ぎで、陳温(ちんおん)も同じく息子。

236年、陳泰は陳羣が死去したためその跡を継ぎ、「潁陰侯」に封ぜられた。また、曹叡(そうえい)の青龍(せいりょう)年間(233~237年)には「散騎侍郎(さんきじろう)」を務めた。

曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)、陳泰は「游撃将軍(ゆうげきしょうぐん)」に転ずる。

のち「幷州刺史(へいしゅうのしし)」となり「振威将軍(しんいしょうぐん)」の称号を加えられ、さらに「使持節(しじせつ)・護匈奴中郎将(ごきょうどちゅうろうしょう)」として異民族を手なずけた。

このとき都の貴族の中には、財貨を届けて陳泰に仲介を頼み、奴婢(ぬひ)を買ってもらおうとする者が多かった。だが、陳泰は届けられた財貨を壁に掛けたままにし、その封を開きもしなかったという。やがて中央へ召し還され「尚書(しょうしょ)」になると、預かっていた財貨をすべて返した。

249年、陳泰は郭淮(かくわい)に代わって「雍州刺史(ようしゅうのしし)」となり、「奮威将軍(ふんいしょうぐん)」の称号を加えられる。

この年の秋、蜀(しょく)の衛将軍(えいしょうぐん)の姜維(きょうい)が雍州に侵攻。麴山(きくざん)を利用してふたつの城を築き、牙門将(がもんしょう)の句安(こうあん)と李韶(りしょう)らに守らせた。さらに羌族(きょうぞく)を駆り集め、諸郡へ侵入したり圧力をかけたりした。

陳泰は征西将軍(せいせいしょうぐん)の郭淮と相談して策を立て、討蜀護軍(とうしょくごぐん)の徐質(じょしつ)や南安太守(なんあんたいしゅ)のトウ艾(とうがい。登+阝)らとともに麴城を包囲。

城への糧道と城外の流水を断ち切ったところ、姜維が救援に駆けつけ、牛頭山(ぎゅうとうざん)から出て魏軍と対峙(たいじ)した。

陳泰は砦(とりで)の守りを固めさせ、あえて戦うなと命ずる。一方で郭淮に使者を遣り、自分は南に進んで白水(はくすい)を渡り、そこから水路に沿って東へ向かうので、あなたは牛頭へ向かい、敵の帰路を遮ってほしいと伝えた。

賛同した郭淮は諸軍をひきいて進み、洮水(とうすい)に布陣。姜維が恐れをなして逃走したため、孤立無援になった句安と李韶らは降伏する。

255年1月に郭淮が死去すると、陳泰は代わって「征西将軍・仮節(かせつ)・都督雍涼諸軍事(ととくようりょうしょぐんじ)」となった。

この年、雍州刺史の王経(おうけい)より、姜維と夏侯霸(かこうは)が3つの道から祁山(きざん)・石営(せきえい)・金城(きんじょう)に向かおうとしているという知らせが届き、これに対して兵を為翅(いし)に進め、涼州の軍を枹罕(ふかん)へ行かせ、討蜀護軍を祁山に向かわせたいとの願い出がある。

夏侯霸は夏侯淵(かこうえん)の息子。249年、魏で曹爽(そうそう)らが司馬懿(しばい)に処刑されたことを受けて蜀に降った。

陳泰は、敵の勢力では3つの道を進むのが不可能だと考え、味方の分散は避けるべきで、涼州の境界を越えるのは適当でないと判断。王経には、われら東西の勢力の合流を待って進軍しようと伝えさせる。

姜維らは数万の軍勢をひきいて枹罕まで来ると、狄道(てきどう)へ向かう。

陳泰は王経に狄道で駐屯せよと命じ、自分の軍の到着を待ってから反撃を開始するよう伝え、陳倉(ちんそう)へ進む。しかし王経配下の諸軍が、古い関所の辺りで敵と戦って敗れ、王経自身は洮水を渡る。

陳泰は、王経が狄道を占拠しながら守りを固めていない様子を見て、別の変事が起こるに違いないと判断。そこで5つの軍営の兵を出して前を行かせ、自分も本軍をひきい狄道へ急いだ。

同年8月、王経は洮水の西で姜維と戦い大敗。1万余人を連れて狄道に引き返し、城に立てこもる。ほかの兵は散りぢりになって逃げた。

姜維は勝利に乗じて狄道を包囲。陳泰は上邽(じょうけい)に軍営を置き、兵を分けて要所を守らせたうえ、夜を日に継いで狄道を目指す。

トウ艾・胡奮(こふん)・王秘(おうひ)らの援軍が駆けつけると、陳泰は彼らと3軍に分かれて隴西(ろうせい)に着き、ここで王経が大敗したとの知らせを受ける。

するとトウ艾は、姜維軍の勢いは避けるべきものだとして、まずは要害の地を確保したうえ、隙をうかがい敵の衰えを待った後、進軍して王経らを救出するよう主張。だが陳泰は聞き入れず、姜維が狄道を包囲しているうちに撃破するほうがよいと考える。

こうしてひそかに高城嶺(こうじょうれい)を越え、夜間に狄道の東南にある高山へ入る。のろしを上げて太鼓や角笛を鳴らすと、城内の将兵は救援の到着を知り、躍り上がって喜んだ。

陳泰は姜維と交戦し、敗れた姜維が撤退。涼州の魏軍は金城を通って南へ向かい、沃干阪(よくかんはん)に到着。陳泰は王経と内密に約束を交わし、ともに敵の帰路へ向かう手はずを整える。これを聞いた姜維らは逃走し、狄道の城兵も外に出ることができた。

陳泰は将兵を慰労し、前後に分けて帰還させる。改めて守備にあたる兵を選び、城壁を修理させると自分も上邽に引き揚げて駐屯した。

のち中央へ召し還されて「尚書右僕射(しょしょゆうぼくや)」となり、官吏の選抜を担当。「侍中(じちゅう)・光禄大夫(こうろくたいふ)」の官位も加えられる。

(これに先立つ同年〈255年〉閏〈うるう〉1月?)呉(ご)の孫峻(そんしゅん)が淮水(わいすい)や泗水(しすい)の流域に侵出してくると、陳泰は「鎮軍将軍(ちんぐんしょうぐん)・仮節・都督淮北諸軍事(ととくわいほくしょぐんじ)」に任ぜられ徐州(じょしゅう)の監軍(かんぐん)以下を指揮する。孫峻が退却したあと魏軍も引き揚げ、「尚書左僕射」に転じた。

ここにある孫峻の侵攻については、255年閏1月のことを指していると思われるもののイマイチよくわからなかった。本伝では、陳泰らが姜維を退けた記事の後に孫峻の記事が見えている。郭淮が死去したのは255年1月なので、陳泰は「鎮軍将軍・仮節・都督淮北諸軍事」を経て、同年のうちに「征西将軍・仮節・都督雍涼諸軍事」に昇進した、ということなのだろうか?

257年、諸葛誕(しょかつたん)が寿春(じゅしゅん)で反乱を起こすと、司馬昭(しばしょう)は曹髦の親征を仰ぎ、全軍をひきいて丘頭(きゅうとう)に布陣。このとき陳泰は「行台(こうだい。尚書台の臨時出張機関)」を取り仕切る。

陳泰は前後にわたる功績により加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は2600戸となった。また、子弟のひとりが「亭侯(ていこう)」に、別の子弟ふたりが「関内侯(かんだいこう)」に、それぞれ封ぜられた。

260年、陳泰が死去すると「司空(しくう)」の官位を追贈され、「穆侯」と諡(おくりな)される。息子の陳恂が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

260年5月、曹髦は司馬昭を誅殺しようと動きましたが、賈充(かじゅう)の指示を受けた成倅(せいさい)と成済(せいせい)の兄弟により返り討ちにされてしまいます。この事件後の陳泰の発言について、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)には以下のようにありました。

まず干宝(かんぽう)の『晋紀(しんき)』によると。

「曹髦が殺害されたとき、司馬昭は朝臣を集めて対応を相談した。太常(たいじょう)の陳泰が来ないので、彼の舅(しゅうと)である荀ギ(じゅんぎ。豈+頁)に呼んでくるよう言う」

「荀ギが事情を説明すると陳泰は言った。『世間の論者は舅どのと私を比べておりますが、いま舅どのは私に及びません』。それでもなお子弟や内外の者から迫られたため、陳泰は涙を流しながら参内した」

「司馬昭は密室で待ち受け『玄伯(陳泰のあざな)。卿(きみ)は私に何をさせたいのだ?』と尋ねる。陳泰は『賈充を処刑し、天下に謝罪してください』と答えた」

「司馬昭は『私のために別の手段を考えてくれ』と言う。すると陳泰は『私はこの進言をするのみで、別の手段など存じません』と応えた。そこで司馬昭はこれ以上は何も言わなかった」のだと。

ここで「太常の陳泰」とあることについて、裴松之は、干宝が何によったものなのかよくわからないと指摘していました。

そして、孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』によると。

「曹髦が崩御(ほうぎょ)すると、太傅(たいふ)の司馬孚(しばふ)と尚書右僕射の陳泰は、遺体を自分のももに枕させる礼を執り、号泣して哀悼の意を尽くした」

「そのとき大将軍(司馬昭)が参内。陳泰は彼を見て慟哭(どうこく)し、大将軍も泣いてこう語りかけた。『玄伯。私はどうしたらいいのか?』」

「陳泰が応える。『賈充を斬る手があるのみです。少しは天下に謝罪できましょう』。しばらくして司馬昭が言った。『卿は改めてほかの手段を考えてくれ』。すると陳泰が応えた。『私にこれ以上しゃべらせることができましょうや』。こうして陳泰は血を吐いて亡くなった」のだと。陳泰の死については真相がわからず、謎が残りましたね。

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