【姓名】 周魴(しゅうほう) 【あざな】 子魚(しぎょ)
【原籍】 呉郡(ごぐん)陽羨県(ようせんけん)
【生没】 ?~237年(?歳)
【吉川】 第287話で初登場。
【演義】 第096回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・周魴伝』あり。
巧妙な手紙を用いて魏(ぎ)の曹休(そうきゅう)をおびき出す
父母ともに不詳。周処(しゅうしょ)という息子がいた。
周魴は若いころから学問を好み、孝廉(こうれん)に挙げられて寧国県長(ねいこくけんちょう)となり、後に転じて懐安県(かいあんけん)を治める。
銭唐(せんとう)の頭目の彭式(ほうしょく)らが人数を集めて略奪を働くと、周魴は銭唐国相(せんとうこくしょう)に任ぜられ、ひと月ほどで彭式と一味を討ち果たす。この功により、丹楊西部都尉(たんようせいぶとい)に昇進した。
225年、鄱陽(はよう)の頭目の彭綺(ほうき)が反乱を起こし、郡下の城を次々に攻め落とすと、周魴は鄱陽太守(はようたいしゅ)に起用され、胡綜(こそう)とともに討伐にあたる。
227年、彭綺を生け捕って武昌(ぶしょう)へ送ると、周魴は功により、昭義校尉(しょうぎこうい)の官位を加えられた。
翌228年、孫権(そんけん)から、山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の旧族や名のある頭目のうち、魏まで知られているような人物と密かに連絡を取り、魏への内通者を装わせよ、との命令が届く。
これは策を用いて、魏の大司馬(だいしば)・揚州牧(ようしゅうぼく)の曹休をおびき寄せようとしたものだった。
このとき周魴は山越を使わず、自分の身内に7通の手紙を届けさせ、自ら曹休をおびき寄せたいと考える。その旨を密かに上奏したところ、孫権も彼の献策を認めた。
曹休は周魴の言い分を信じ、歩騎10万をひきいて皖(かん)まで進む。周魴は軍勢を総動員し、陸遜(りくそん)に付き従って魏軍の側面を攻めた。
その結果、魏軍は石亭(せきてい)で大敗を喫し、戦死したり捕虜となった者が1万を超えた。
実は周魴が孫権に献策を行ったころ、たびたび中央から郎官が遣わされ、詔(みことのり)をもって郡内の諸問題に関する詰問を受けていた。そこで周魴は郡府の門前で剃髪(ていはつ)し、謝罪の意思を示す。
曹休はこの話を伝え聞いていたので、周魴の言い分を疑わなかったのだという。
呉軍が凱旋(がいせん)すると盛宴が催され、周魴は裨将軍(ひしょうぐん)に任ぜられたうえ、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。
後に不服従民の頭目の董嗣(とうし)が険阻に拠って略奪を働き、豫章(よしょう)と臨川(りんせん)の両郡が被害を受ける。
吾粲(ごさん)と唐咨(とうし)が3千の兵をひきいて討伐にあたったものの、数か月を経ても鎮定できずにいた。
★本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)によると、「臨川郡は孫亮(そんりょう)の太平(たいへい)2(257)年に初めて立てられたもので、この当時はなかった」という。
確かに『三国志』(呉書・孫亮伝)には、257年春、孫亮が豫章郡の東部を分割し、臨川郡を新設したとの記事が見える。
そこで周魴が上表し、いったん軍事行動は取りやめ、この件の処置を一任してほしいと願い出る。
これが許可されると、周魴は策を授けた間諜(かんちょう)を遣り、隙をうかがって董嗣を暗殺した。
董嗣の弟は恐れおののき、武昌まで出てきて陸遜に降伏し、今後は平地にあって行いを改めたいと申し出る。それ以降、周辺の数郡は平穏になった。
237年、周魴は、鄱陽太守として在任すること13年目に死去。彼は信賞必罰の方針を貫いたため、その威厳と恩愛は郡内に広く行き渡ったという。
管理人「かぶらがわ」より
本伝には、周魴が曹休に届けさせた7通の手紙の全文が引用されていました。
どれだけ魏への帰順を熱望しているかを訴えたもの、最近受けた理不尽な譴責(けんせき)について述べたもの、同調者に与えるための印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を求めるものなどです。
これらはいずれも曹休を動かすに足る内容だったのでしょうが、彼ほどの魏の重鎮に、頼りになる参謀がいなかったのだろうか? とも思いました。あまりにも見事にはまりすぎた感じがしますからね……。
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