曹叡(そうえい) ※あざなは元仲(げんちゅう)、魏(ぎ)の烈祖(れっそ)明皇帝(めいこうてい)

【姓名】 曹叡(そうえい) 【あざな】 元仲(げんちゅう)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 205?~239年(35歳?)

【吉川】 第277話で初登場。
【演義】 第091回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・明帝紀(めいていぎ)』あり。

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魏(ぎ)の第2代皇帝、その出生には謎が残る、烈祖(れっそ)明皇帝(めいこうてい)

父は曹丕(そうひ)、母は甄氏(しんし。文昭甄皇后〈ぶんしょうしんこうごう〉)。同母兄弟はいないが、同母妹に曹氏(そうし。東郷公主〈とうきょうこうしゅ〉)がいる。

異母弟には、曹協(そうきょう)・曹蕤(そうずい)・曹鑒(そうかん)・曹霖(そうりん)・曹礼(そうれい)・曹邕(そうよう)・曹貢(そうこう)・曹儼(そうげん)がいる。

祖父の曹操(そうそう)から期待されていたものの、実母の甄氏が曹丕に誅殺されたため、なかなか皇太子には立てられなかった。

跡を継いだ曹芳(そうほう)と曹詢(そうしゅん)は養子。実子の曹冏(そうけい)・曹穆(そうぼく)・曹殷(そういん)は、いずれも早く亡くなった。

そのほかにも夭折(ようせつ)した娘の曹淑(そうしゅく。平原懿公主〈へいげんいこうしゅ〉)や、李韜(りとう)に降嫁した曹氏(斉長公主〈せいちょうこうしゅ〉)がいた。

臨汾公主(りんふんこうしゅ。名は不詳)や畢軌(ひっき)の息子(名は不詳)に降嫁した曹氏も、曹叡の娘の可能性が高い。

帝位を継いだ曹芳から明皇帝と諡(おくりな)された。廟号(びょうごう)は烈祖。

主な経歴

-205年(1歳)-
この年、誕生か?

-220年(16歳)-
5月、武徳侯(ぶとくこう)に封ぜられる。

-221年(17歳)-
6月、父の曹丕に生母の甄氏が誅殺される。

この年、斉公(せいこう)に移封される。

-222年(18歳)-
3月、平原王(へいげんおう)に移封される。

-226年(22歳)-
5月、魏の皇太子に立てられる。

5月、亡くなった父の曹丕の跡を継いで帝位に即き、大赦を行う。

また、皇太后の卞氏(べんし)を太皇太后と、父の曹丕の皇后だった郭氏(かくし)を皇太后と、それぞれ尊称。諸臣にも格差をつけて封爵を行った。

6月、亡き生母の甄氏に、文昭皇后(ぶんしょうこうごう)の諡号(しごう)を追贈する。

6月、異母弟の曹蕤を陽平王(ようへいおう)に封ずる。

8月、呉(ご)の孫権(そんけん)が江夏郡(こうかぐん)に攻め寄せたものの、江夏太守(こうかたいしゅ)の文聘(ぶんぺい)が堅守する。

8月、息子の曹冏を清河王(せいかおう)に封ずる。

?月、呉の諸葛瑾(しょかつきん)と張霸(ちょうは)らが襄陽(じょうよう)に侵攻。これを撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)の司馬懿(しばい)が撃破し、張霸を斬殺する。

また、征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の曹休(そうきゅう)も尋陽(じんよう)で呉の別動部隊を討ち破った。これを受けて論功行賞を行った。

10月、息子で清河王の曹冏が薨去(こうきょ)する。

12月、太尉(たいい)の鍾繇(しょうよう)を太傅(たいふ)に、征東大将軍の曹休を大司馬(だいしば)に、中軍大将軍の曹真を大将軍(だいしょうぐん)に、司徒(しと)の華歆(かきん)を太尉に、司空(しくう)の王朗を司徒に、鎮軍大将軍の陳羣を司空に、撫軍大将軍の司馬懿を驃騎大将軍(ひょうきだいしょうぐん)に、それぞれ任ずる。

-227年(23歳)-
1月、洛陽(らくよう)の郊外で武帝(ぶてい。曹操)と天帝を併せて祭り、明堂(めいどう。政堂)で文帝(ぶんてい。曹丕)と上帝を併せて祭る。

1月、江夏郡の南部を分割し、江夏南部都尉(こうかなんぶとい)の官を置く。

1月、西平(せいへい)の麴英(きくえい)が反乱を起こし、臨羌県令(りんきょうけんれい)と西都県長(せいとけんちょう)を殺害する。郝昭(かくしょう)と鹿磐(ろくはん)を討伐に遣わし、麴英を斬殺させた。

2月、自ら籍田(せきでん)を耕す。

2月、亡き生母の文昭皇后(甄氏)の霊廟(れいびょう)を鄴(ぎょう)に建立する。

2月、洛陽の東郊で太陽を祭る。

3月、亡き甄逸(しんいつ。文昭甄皇后の父)に中山郡(ちゅうざんぐん)の魏昌県(ぎしょうけん)安城郷(あんじょうきょう)の1千戸を追贈し、敬侯(けいこう)と諡する。爵位は甄逸の嫡孫の甄像(しんぞう)が継いだ。

4月、五銖銭(ごしゅせん。漢代に通行し、董卓〈とうたく〉によって廃止された、重さ5銖の銅貨。曹丕の時代〈221年〉にも一時復活した)の発行を許可する。

4月、祖先の霊廟を造営する。

8月、洛陽の西郊で月を祭る。

10月、洛陽の東郊で閲兵式を行う。

10月、焉耆王(えんきおう)の息子が入朝し、曹叡に近侍することになる。

11月、毛氏(もうし)を皇后に立てる。この際、広く天下の男子に2級の爵位を賜い、やもめ、寡婦、子のない老人、孤児で自立していけない者に扶持米(ふちまい)を下賜した。

12月、毛皇后の父の毛嘉(もうか)を列侯(れっこう)に封ずる。

12月、新城太守(しんじょうたいしゅ)の孟達(もうたつ)が反乱を起こす。驃騎将軍の司馬懿に詔(みことのり)を下して討伐を命じた。

-228年(24歳)-
1月、司馬懿が新城の孟達を攻め、これを斬殺したうえ、その首を洛陽に届けてくる。

1月、新城郡から上庸(じょうよう)・武陵(ぶりょう)・巫(ふ)の3県を分割して上庸郡としたうえ、錫県(せきけん)を錫郡とする。

?月、蜀の諸葛亮(しょかつりょう)が国境を越えて軍勢を進めてくる。天水(てんすい)・南安(なんあん)・安定(あんてい)の3郡の官吏と民衆が諸葛亮に呼応した。

曹叡は、大将軍の曹真を遣わして関右(かんゆう。関中〈かんちゅう〉)の軍勢を統率するよう命じ、一斉に進発させた。

その後、右将軍(ゆうしょうぐん)の張郃(ちょうこう)が街亭(がいてい)で蜀軍を大破し、諸葛亮は逃走。こうして蜀に呼応した3郡も再び平定された。

2月、長安(ちょうあん)に行幸する。

4月、洛陽宮に還幸し、獄囚のうちで死刑囚以下の者を赦免する。

4月、先の蜀軍撃退の勲功について、それぞれ格差をつけたうえ、封爵と領地の加増を行う。

5月、大干ばつが起こる。

6月、詔を下す。「儒者を尊重して学問を大切にすることは、帝王の教化の根本である」として、「博士(はくし)を選りすぐり、その才能に応じて侍中(じちゅう)や常侍(じょうじ)に任命せよ。また郡国についても、貢士(こうし)には経学(けいがく)に優れた者を優先して起用するようにさせよ」というもの。

9月、大司馬の曹休が、呉の周魴(しゅうほう)の佯降策(ようこうさく)に引っかかる。曹休は石亭(せきてい)で陸遜(りくそん)らに大敗した。

9月、曹穆を繁陽王(はんようおう)に封ずる。

10月、大司馬の曹休が死去する。

10月、詔を下す。公卿(こうけい)や側近に対して、「優れた大将をそれぞれひとりずつ推挙せよ」というもの。

11月、司徒の王朗が死去する。

12月、蜀の諸葛亮が陳倉(ちんそう)を包囲する。大将軍の曹真は、費曜(ひよう)らを遣わして蜀軍にあたらせた。

12月、公孫淵(こうそんえん)を遼東太守(りょうとうたいしゅ)に任ずる。もともと遼東太守だった公孫恭(こうそんきょう)の兄の息子である公孫淵が、公孫恭から位を強奪したもの。

-229年(25歳)-
春、蜀の諸葛亮が陳式(ちんしょく)を遣わし、武都(ぶと)・陰平(いんぺい)の両郡が攻め落とされる。

4月、元城王(げんじょうおう)の曹礼(そうれい)が薨去する。

4月、呉の孫権が帝位に即く。

6月、息子で繁陽王の曹穆が薨去する。

6月、高祖父(こうそふ)にあたる大長秋(だいちょうしゅう)の曹騰(そうとう)に高皇帝(こうこうてい)の尊号を、その夫人だった呉氏(ごし)に高皇后(こうこうごう)の尊号を、それぞれ追贈する。

7月、詔を下す。「万一、魏の跡継ぎが諸侯の中から出て入朝し、大いなる皇統を受け継ぐ場合、他家の跡取りの取るべき建前を明白にすべきである」として、「皇帝の亡き父を皇と呼び、亡き母を后と呼ぶようなことがあれば、たとえそうするように勧めたのが補佐の大臣であっても誅殺し、決して許してはならない」というもの。

10月、平望観(へいぼうかん)を聴訟観(ちょうしょうかん)と改める。

11月、太常(たいじょう)の韓曁(かんき)に節(せつ。使者のしるし)を持たせて鄴に遣わし、高皇帝(曹騰)・太皇帝(たいこうてい。曹嵩〈そうすう〉)・武皇帝(ぶこうてい。曹操)・文皇帝(ぶんこうてい。曹丕)の位牌を洛陽に迎える。

12月、これら父祖の位牌が洛陽に到着し、完成した霊廟に安置される。

12月、大月氏国(だいげっしこく)の王の波調(はちょう)の使者が着き、貢ぎ物を献ずる。これを受け、波調を親魏大月氏王(しんぎだいげっしおう)に封じた。

-230年(26歳)-
1月、合肥新城(ごうひしんじょう)を築城する。

2月、詔を下す。「戦乱の勃発以来、経学はまったく廃れ、若者の行動も古典によろうとはしなくなった」とし、「郎吏(ろうり)のうち一経に通暁している者や、民を治めるに足る才能の持ち主がいれば、博士が試験して優秀な者を選び出し、速やかに起用せよ」としたうえ、「表面だけ華美で内実がなく、道理の根本に努めようとしない者はすべて罷免する」というもの。

2月、太傅と三公に詔を下し、文帝(曹丕)の『典論(てんろん)』を石に刻ませ、その石碑を霊廟の外に立てるよう命ずる。

2月、大将軍の曹真を大司馬に、驃騎将軍の司馬懿を大将軍に、遼東太守の公孫淵を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に、それぞれ任ずる。

4月、太傅の鍾繇が死去する。

6月、太皇太后の卞氏が崩御(ほうぎょ)する。

6月、上庸郡を廃止する。

7月、武宣卞后(ぶせんべんこう。卞氏)を高陵(こうりょう。曹操の陵)に合葬する。

7月、大司馬の曹真と大将軍の司馬懿に詔を下し、蜀の討伐を命ずる。

8月、東方に巡幸し、使者を遣わして犠牲(いけにえ)の牛を捧げ、中岳(ちゅうがく。嵩山〈すうざん〉)を祭る。

8月、許昌宮(きょしょうきゅう)に行幸する。

9月、大雨が降り、伊水(いすい)・洛水(らくすい)・黄河(こうが)・漢水(かんすい)が氾濫する。これを受け、出征中の曹真に詔を下して帰還を命じた。

10月、巡幸を終え、洛陽宮(らくようきゅう)に還幸する。

10月、詔を下す。「罪人のうち死刑囚以外の者を許すが、その保釈金にはそれぞれ格差をつける」というもの。

11月、太白星(たいはくせい。金星)が歳星(さいせい。木星)を犯す。

12月、公卿に命じて賢良(けんりょう。才能や人格の優れた人物)を推挙させる。

12月、文昭甄后(ぶんしょうしんこう。曹丕の夫人で曹叡の生母)を朝陽陵(ちょうようりょう)に改葬する。

-231年(27歳)-
1月、自ら籍田を耕す。

3月、大司馬の曹真が死去する。

3月、蜀の諸葛亮が天水郡に侵攻する。大将軍の司馬懿に詔を下して迎撃を命ずる。

3月、昨年(230年)10月から雨が降らなかったため、大がかりな雨乞いの儀式を執り行う。

4月、鮮卑族(せんぴぞく)の附義王(ふぎおう)の軻比能(かひのう)が、同部の族人と丁零(ていれい)の大人(たいじん。部族の有力者)の児禅(げいぜん)を引き連れて幽州(ゆうしゅう)に到着し、名馬を献ずる。

これを受けて、再び護匈奴中郎将(ごきょうどちゅうろうしょう)の官を置いた。

6月、蜀の諸葛亮が撤退。追撃した張郃が青封(せいほう)で諸葛亮と交戦したものの、矢に当たって戦死する。

7月、蜀の諸葛亮を撤退させた功績に対し、官位と封爵の引き上げを行う。功績の大小によって格差をつけた。

7月、息子の曹殷が誕生したため大赦を行う。

8月、詔を下す。「魏の諸王および親族の公侯は、それぞれ嫡子ひとりを朝廷に参内させるよう命ずる」というもの。

冬、詔を下す。「魏の諸王は、翌年(232年)の正月に参内せよ」というもの。

11月、月が軒轅大星(けんえんたいせい。獅子座〈ししざ〉のアルファ星)を犯す。

11月、日食が起こる。

12月、月が塡星(ちんせい。鎮星とも。土星)を犯す。

12月、太尉の華歆が死去する。

-232年(28歳)-
2月、詔を下す。「魏の諸王侯に改めて領地を与え、みな一郡をもって領国とさせる」というもの。

2月、叔父の曹植(そうしょく)を陳王(ちんおう)に封ずる。領邑(りょうゆう)は陳郡の4県の合わせて3,500戸とした。

3月、東方に巡幸し、通りかかった地域の老人、連れ合いのない男女、孤児などを慰問し、穀物と白絹を下賜する。

3月、月が軒轅大星を犯す。

4月、許昌宮に行幸する。

4月、初めて霊廟に新鮮な果物をお供えする。

5月、息子の曹殷が薨去する。領地を追贈し、安平哀王(あんぺいあいおう)と諡した。

7月、衛尉(えいい)の董昭(とうしょう)を司徒に任ずる。

9月、摩陂(まひ)に行幸して許昌宮を修理させ、景福殿(けいふくでん)と承光殿(しょうこうでん)を造営する。

10月、殄夷将軍(てんいしょうぐん)の田豫(でんよ)が、成山(せいざん)で呉の周賀(しゅうが)を討ち取る。周賀らは孫権の命を受け、遼東の公孫淵のもとへ遣わされていたもの。

11月、太白星が昼間に現れる。

11月、彗星(すいせい)が翼(よく。コップ座)に現れ、太微(たいび。星垣〈せいえん〉。獅子座の西端にある10星)の上将星(じょうしょうせい)に接近する。

11月、叔父で陳王の曹植が薨去する。

12月、行幸を終え、許昌宮に還幸する。

-233年(29歳)-
1月、郟(きょう)の摩陂の井戸の中に青龍が現れる。

2月、摩陂に行幸して青龍を見る。それを受けて「太和(たいわ)」を「青龍(せいりょう)」と改元した。

また、摩陂を龍陂(りょうひ)と改め、男子に2等の爵位を与え、「連れ合いのない男女、孤児、子のない老人は、今年の税を納めなくてもよい」とした。

3月、公卿に詔を下し、賢良篤行の士(けんりょうとっこうのし。才能や人格が優れ、行いが誠実な人物)をそれぞれひとりずつ推挙させる。

5月、詔を下し、亡き大将軍の夏侯惇(かこうとん)、大司馬の曹仁(そうじん)、車騎将軍の程昱(ていいく)を、太祖(曹操)の霊廟の園庭に祭らせる。

5月、北海王(ほっかいおう)の曹蕤が薨去する。

閏5月、日食が起こる。

閏5月、詔を下し、諸王の娘ではない帝族の娘を、みな邑主(ゆうしゅ)と呼称させる。

また郡国にも詔を下し、祠典(してん。祭の規定を著した書物)に名の記されていない山川を祭ることを禁じた。

6月、洛陽宮で蹴鞠(けまり)をするための部屋が焼ける。

?月、先に魏に帰順し、国境地帯を守っていた鮮卑族の大人の歩度根(ほどこん)と、反乱を起こした鮮卑族の大人の軻比能が、密かに誼(よしみ)を通ずる。

幷州刺史(へいしゅうしし)の畢軌から上表があり、ただちに出兵して国境の外にいる軻比能を威嚇(いかく)し、国境の内にいる歩度根を鎮圧する旨を伝えてきた。

そこで畢軌に詔を下し、「両者の連合を防ぐために出兵する場合は、くれぐれも国境を越えて句注(こうちゅう)に立ち寄ってはならない」と戒めた。

この詔が届いたころ、畢軌は軍勢を進めて陰館(いんかん)に駐屯、将軍の蘇尚(そしょう)と董弼(とうひつ)を遣わし、鮮卑を追撃させていた。

軻比能が息子に命じ、1千騎あまりをひきいて歩度根の部落民を迎えに行かせたところ、楼煩(ろうはん)で蘇尚・董弼と出くわして戦闘になり、魏の両将が戦死した。

歩度根の部落民はこぞって反旗を翻すと、国境を出、軻比能と合流して付近一帯に害を加えた。

そのため曹叡は驍騎将軍(ぎょうきしょうぐん)の秦朗(しんろう)に討伐を命じ、ようやく賊徒は砂漠の北方に逃走した。

9月、先に魏に帰順し、安定の国境地帯を守っていた匈奴(きょうど)の大人の胡薄居姿職(こばくきょししょく)らが反乱を起こす。

司馬懿が将軍の胡遵(こじゅん)らを遣わし、これを討ち破って降伏させた。

10月、鮮卑族の歩度根の部落の大人である戴胡阿狼泥(たいこあろうでい)らが、幷州へ来て魏に降る。これにより秦朗は軍勢を引き揚げて帰還した。

12月、公孫淵から、呉の孫権の使者である張弥(ちょうび)・許晏(きょあん)の首が届けられる。

これを受け、公孫淵を大司馬に任じたうえ、楽浪公(らくろうこう)に封じた。

-234年(30歳)-
2月、太白星が熒惑星(けいわくせい。火星)を犯す。

2月、詔を下す。官吏に対する刑罰の鞭打ちについて、「最近は無実でありながら、鞭打ちのために死に至る者が多数いる」として、「鞭打ちや杖(じょう)打ちの刑罰を廃止せよ」というもの。

3月、山陽公(さんようこう)の劉協(りゅうきょう)が薨去する。曹叡は白い服を着て喪に服し、節を持たせた使者を遣わして葬儀を執り行わせた。

3月、大赦を行う。

4月、疫病が大流行する。

4月、崇華殿(すうかでん)が炎上する。

4月、担当官吏に詔を下し、太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)を捧げて文帝(曹丕)の霊廟に祭り、山陽公(劉協)の死を報告させる。

また、山陽公に漢孝献皇帝(かんのこうけんこうてい)と諡し、漢の礼式によって葬るよう命じた。

4月、蜀の諸葛亮が、2月に斜谷(やこく)から出撃した後、渭南(いなん)に駐屯する。曹叡は司馬懿に諸軍の統率を命じ、蜀軍と対陣させた。

このとき司馬懿に詔を下し、「ひたすら砦を固め、守ることで相手の矛先をくじくように」と指示した。

5月、太白星が昼間に現れる。

5月、呉の孫権が居巣湖(きょそうこ)の入り口に攻め込み、合肥新城に向かってくる。

また孫権は、陸議(りくぎ。陸遜)と孫韶(そんしょう)らにそれぞれ1万以上の軍勢を統率させ、淮水および沔河(べんが)へ進ませた。

6月、征東将軍(せいとうしょうぐん)の満寵(まんちょう)が、呉の侵攻を防ぐため軍勢を進める。

7月、お召し船に乗り込んで東方へ親征する。

しかし寿春(じゅしゅん)に到着する前に、張穎(ちょうえい)の抵抗に遭った呉の孫権が合肥新城から退き、陸遜や孫韶らも撤退した。

7月、寿春まで軍勢を進め、諸将の勲功の調査を命ずる。この結果に応じ、それぞれ格差をつけて封爵や恩賞の沙汰を行った。

8月、六軍(りくぐん)の兵を供応するため、使者に節を持たせて遣わし、合肥や寿春の諸軍に酒や食べ物を贈り、その労苦をねぎらう。

8月、山陽公(劉協)を山陽国に埋葬させ、陵墓を禅陵(ぜんりょう)と名付けたうえ、墓守のための村落を置く。

埋葬の当日、曹叡は錫衰(しさい)を着て弁絰(べんてつ)をつけ、山陽公のために慟哭(どうこく)した。

また、山陽公の嫡孫で桂氏郷公(けいしきょうこう)の劉康(りゅうこう)を後継者として、新たに山陽公に封じた。

8月、許昌宮に還幸する。

8月、司馬懿と対峙していた蜀の諸葛亮が陣没し、蜀軍も撤退。

10月、月が塡星と軒轅(けんえん。獅子座)を犯す。

10月、月が太白星を犯す。

11月、洛陽で地震が起こる。

12月、担当官吏に詔を下し、死刑に該当する罪を減らすよう命ずる。

-235年(31歳)-
1月、大将軍の司馬懿を太尉に任ずる。

1月、再び朔方郡(さくほうぐん)を置く。

1月、洛陽で疫病が大流行する。

2月、郭太后(かくたいこう)が崩御する。

2月、寿光県(じゅこうけん)に隕石が落ちる。

3月、文徳郭后(ぶんとくかくこう。郭太后)を埋葬し、首陽陵(しゅようりょう。曹丕の陵)の谷川の西に御陵(みささぎ)を造営する。これらは生前に文帝(曹丕)が遺した定め通りに執り行われた。

?月、洛陽宮を大規模に修理させ、昭陽殿(しょうようでん)と太極殿(たいごくでん)を新造したうえ、総章観(そうしょうかん)も築く。

これを受けて民の不満が高まり、楊阜(ようふ)や高堂隆(こうどうりゅう)らから何度も諫言されたが、曹叡は聞き入れなかった。

7月、洛陽の崇華殿が炎上する。

8月、洛陽宮に還幸する。担当官吏に崇華殿の再建を命じ、九龍殿(きゅうりょうでん)と改めた。

8月、息子の曹芳を斉王(せいおう)に、同じく曹詢を秦王(しんおう)に、それぞれ封ずる。

10月、中山王(ちゅうざんおう)の曹袞(そうこん)が薨去する。

10月、太白星が昼間に現れる。

11月、許昌宮に行幸する。

この年、幽州刺史(ゆうしゅうしし)の王雄(おうゆう)が刺客を送り、軻比能を暗殺した。

-236年(32歳)-
2月、太白星が昼間に現れる。月が太白星を犯し、さらに軒轅を犯して、太微の領域に入った後で出ていった。

4月、崇文観(すうぶんかん)を新設し、文章に秀でた者を召し出して任用する。

5月、司徒の董昭が死去する。

5月、粛慎氏(しゅくしんし)が楛矢(こし)を献上してくる。

6月、詔を下す。「以前に死刑の条項を再検討させ、その多くを削除したにもかかわらず、郡国では獄死する者が年に数百人を超えている」とし、「担当官吏は裁判について論議し、死刑を緩和して、努めて寛大簡略な処置に従うように」というもの。

7月、高句驪王(こうくりおう。高句麗王)の位宮(いきゅう)から、呉の孫権の使者である胡衛(こえい)らの首が幽州に届けられる。

7月、太白星が軒轅大星を犯す。

10月、洛陽宮に還幸する。

10月、彗星が大辰(たいしん。大火〈たいか〉。蠍座〈さそりざ〉のアンタレス)に現れ、翌日にも東方に現れる。

11月、彗星が現れ、宦者天紀星(かんじゃてんきせい)を犯す。

12月、司空の陳羣が死去する。

12月、許昌宮に行幸する。

-237年(33歳)-
正月、山茌県(さんしけん)から「黄龍が現れた」との報告が届く。

このとき担当官吏から上奏があり、「魏は地統を得ておりますので、建丑(けんちゅう)の月(12月のこと)を正月とされるべきです」と述べた。

3月、暦を改定する。「青龍」を「景初(けいしょ)」と改元し、この月(青龍5年3月)を(景初元年)4月とした。

衣服は黄色を尊んで用いることとし、犠牲には白い獣を用い、軍事では頭が黒の白馬(?)に乗り、大きな赤い旗を立て、朝廷の会合には大きな白い旗を立てた。

また、太和暦(たいわれき)を改めて景初暦と名付けた。

5月、洛陽宮に還幸する。

5月、大赦を行う。

6月、尚書令(しょうしょれい)の陳矯(ちんきょう)を司徒に、尚書右僕射(しょうしょゆうぼくや)の衛臻(えいしん)を司空に、それぞれ任ずる。

6月、魏興郡(ぎこうぐん)から魏陽県(ぎようけん)を、錫郡から安富(あんふ)・上庸の両県を、それぞれ分割し、上庸郡を新設する。

また錫郡を廃止し、錫県を魏興郡に併せた。

6月、洛陽で地震が起こる。

6月、担当官吏から上奏がある。「太祖(たいそ。曹操)・高祖(こうそ。曹丕)・烈祖(れっそ。曹叡自身)の三祖の霊廟は万世の後まで壊さずにおかれ、そのほかの四廟(天子〈てんし〉の廟は七廟)は近い関係が絶えれば順次取り壊されて、周(しゅう)の后稷(こうしょく)・文王(ぶんのう)・武王(ぶおう)の三祖の霊廟の制度と同様になさいますように」というもの。

7月、司徒の陳矯が死去する。

7月、呉の孫権が朱然(しゅぜん)らに2万の兵を付けて遣わし、江夏郡を包囲する。荊州刺史(けいしゅうしし)の胡質(こしつ)らが反撃し、朱然は退却した。

7月、以前、呉の孫権は高句驪に使者を遣わして誼を通じ、遼東を攻めようとした。

そこで幽州刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)に、諸軍および鮮卑と烏丸(うがん)の軍勢も統率させ、遼東の南境に駐屯するよう命じた。さらに詔によって公孫淵を召し寄せた。

7月、遼東の公孫淵が背く。

幽州刺史の毌丘倹は軍勢を進めて討伐しようとしたが、ちょうど10日間も雨が続き、遼水(りょうすい)が満ちあふれる。

そのため毌丘倹に詔を下し、右北平(ゆうほくへい)への引き揚げを命じた。

7月、烏丸の単于(ぜんう。王)の寇婁敦(こうろうとん)と遼西(りょうせい)の烏丸都督王(うがんととくおう)の護留(ごりゅう)らが、住んでいた遼東から部族をひきいて帰順してくる。

7月、詔を下し、遼東の将校・軍吏・兵士・庶民のうち、公孫淵に脅迫されてやむなく従った者たちをみな許す。

7月、太白星が昼間に現れる。

?月、毌丘倹が引き揚げた後、遼東の公孫淵が自立して燕王(えんおう)と称し、独自の百官を置く。また、年号を建てて「紹漢(しょうかん)元年」と称した。

?月、詔を下し、青州(せいしゅう)・兗州(えんしゅう)・幽州・冀州(きしゅう)の4州に海船の建造を命ずる。

9月、冀州・兗州・徐州(じょしゅう)・豫州(よしゅう)の4州が洪水に見舞われたため、侍御史(じぎょし)を遣わして巡行視察を命じ、洪水で溺死した者や財産をなくした者に対して官倉を開き、救済を図る。

9月、毛皇后が崩御する。

10月、月が熒惑星を犯す。

10月、悼毛后(とうもうこう。毛氏)を愍陵(びんりょう)に葬る。

10月、洛陽の南にある委粟山(いぞくざん)に円丘(えんきゅう。冬至に天を祭る場所)を造営する。

12月、初めて冬至に祭祀(さいし)を執り行う。

12月、襄陽郡から臨沮(りんしょ)・宜城(ぎじょう)・旍陽(せいよう)・邔県(きけん)の4県を分割し、襄陽南部都尉(じょうようなんぶとい)の官を置く。

12月、担当官吏から上奏があり、「都(洛陽)に文昭皇后(甄氏)の霊廟を建立されますように」と求められる。

12月、襄陽郡から鄀葉県(じゃくようけん)を分割し、義陽郡(ぎようぐん)に併せる。

-238年(34歳)-
1月、詔を下し、太尉の司馬懿に軍勢を統率させ、遼東の公孫淵討伐を命ずる。

2月、太中大夫(たいちゅうたいふ)の韓曁(かんき)を司徒に任ずる。

2月、月が心宿(しんしゅく。蠍座の中央部)の距星(きょせい。アル・ニヤト)を犯したうえ、心宿の中央の大星(大火。蠍座のアンタレス)も犯す。

4月、司徒の韓曁が死去する。

4月、沛国(はいこく)から蕭県(しょうけん)・相県(しょうけん)・竹邑(ちくゆう)・符離(ふり)・蘄県(きけん)・銍県(ちつけん)・龍亢(りょうこう)・山桑(さんそう)・洨県(こうけん)・虹県(こうけん)の10県を分割し、汝陰郡(じょいんぐん)とする。

また、宋県(そうけん)と陳郡(ちんぐん)の苦県(こけん)を譙郡に併せる。

さらに、沛県・杼秋(ちょしゅう)・公丘(こうきゅう)の3県と彭城郡(ほうじょうぐん)の豊国(ほうこく)・広戚(こうせき)の両県を併せて沛国とした。

4月、大赦を行う。

5月、月が再び心宿の距星を犯し、心宿の中央の大星も犯す。

6月、司馬懿の軍勢が遼東に到着する。

6月、漁陽郡(ぎょようぐん)から狐奴県(こどけん)を廃止し、再び安楽県(あんらくけん)を置く。

8月、焼当(しょうとう)の羌王(きょうおう)の芒中(ぼうちゅう)や注詣(ちゅうけい)らが反乱を起こす。涼州刺史(りょうしゅうしし)が諸郡の軍勢をひきいて討伐にあたり、注詣を斬った。

8月、長さ数十丈もある大流星が、首山(しゅざん)の東北から襄平城(じょうへいじょう)の東南の方向に落ちる。

8月、公孫淵の軍勢が総崩れとなる。公孫淵は息子の公孫脩(こうそんしゅう)とともに、数百の騎兵をひきいて魏軍の包囲を突破して東南へ逃亡。

魏の大軍はこれを急襲し、先に大流星が落ちた地点で公孫淵父子を斬り殺した。

8月、彗星が張宿(ちょうしゅく。海蛇座の中央部)に現れる。

9月、司馬懿が襄平で公孫淵を討ち破り、その首を洛陽に送ってくる。これにより海東(かいとう。遼東)の諸郡が平定された。

9月、蜀の陰平太守(いんぺいたいしゅ)の廖惇(りょうとん)が謀反を起こし、魏の守善羌侯(しゅぜんきょうこう)の宕蕈(とうしん)の陣へ攻めてくる。

雍州刺史(ようしゅうしし)の郭淮(かくわい)が、広魏太守(こうぎたいしゅ)の王贇(おういん)と南安太守(なんあんたいしゅ)の游奕(ゆうえき)を遣わし、廖惇の討伐にあたらせた。

郭淮からの上奏を受け、魏軍がふた手に分かれて敵を包囲していることを知り、配置を変えるよう詔を下したものの、この詔が届く前に游奕は廖惇に敗れ、王贇も流れ矢に当たって戦死した。

11月、公孫淵討伐の勲功の大小に応じ、太尉の司馬懿以下に領邑の加増や封爵を行う。

11月、司空の衛臻を司徒に、司隷校尉(しれいこうい)の崔林(さいりん)を司空に、それぞれ任ずる。

閏11月、月が心宿の中央の大星を犯す。

12月、病床に就く。

12月、郭氏(明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)を皇后に立てる。この際、天下の男子に爵位を2級ずつ授け、やもめ、未亡人、孤児、子のいない老人に穀物を下賜した。

また、燕王の曹宇(そうう)を大将軍に任じた。

12月、大将軍の曹宇を罷免し、武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の曹爽(そうそう)を大将軍に任ずる。

12月、そのむかし(青龍3〈235〉年)寿春の農民の妻が、「私は天の神から登女(仙女)となるよう命ぜられた者だ」と言い出した。女が病人に水を飲ませたり、けが人の傷口を洗ってやったりすると、治癒する者が多数あった。

そこで曹叡は、彼女のために奥御殿に屋敷を建てて厚遇した。

しかし自身が病床に伏すに及び、彼女の水を飲んでも効き目がなかったため、このとき殺害した。

この年、倭(わ)の女王である卑弥呼(ひみこ)の使者がやってくる。これを受け、卑弥呼を親魏倭王(しんぎわおう)に封じた。

この件については、翌239年の可能性もある(現在では景初3〈239〉年説が定説になっている)という。

-239年(35歳)-
1月、早馬を出し、遼東の公孫淵討伐を終えて河内(かだい)まで戻っていた司馬懿を召し寄せる。

危篤状態で後事を託し、曹爽とともに幼い息子(曹芳のこと。同日ようやく皇太子に立てられた)を補佐するよう命じ、その日のうちに嘉福殿(かふくでん)で崩御した。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(魏書・明帝紀)に、曹叡が景初3(239)年に亡くなったとき、36歳だったと書かれていることが疑問の始まり。

曹叡の生母とされる甄氏は大変な美貌の持ち主で、初め袁紹(えんしょう)の次男の袁熙(えんき)に嫁いでいました。

甄氏は建安(けんあん)9(204)年8月に曹操が鄴を陥した際に捕らえられ、後に曹丕が娶(めと)り、曹叡と娘の東郷公主を儲けたそうです。

なぜか『三国志』には、正統とする魏の皇帝である曹叡の生年が書かれておらず、享年から逆算すると、建安9(204)年の生まれということになってしまいます。

袁熙の息子を曹家の子として育てるわけがないので、これ(享年36)はあり得ない――。

そこで裴松之(はいしょうし)は注の中で、「明帝(曹叡)は建安10(205)年に生まれたはずだ」としたうえ、当時の暦の改定の影響を考慮しても、(享年は)35歳にしかならず、36歳にはならないと指摘しています。

この疑問については様々な文献を読みましたが、いまだ決定的な解釈に出会えていません。ほかに何か隠された事情があるのか謎が残ります。

これに関連して、もうひとつ引っかかっているのが、曹叡が武徳侯に封ぜられた記事。

『三国志』(魏書・文帝紀)には、黄初(こうしょ)元(220)年5月に曹叡が武徳侯に取り立てられたという記事があります。

そして『三国志』(魏書・明帝紀)には、曹叡は15歳の時に武徳侯に封ぜられたという記事があります。

ここも15歳から逆算すると、どうも計算が合いません。黄初元(220)年に15歳だったのなら、生年は建安11(206)年ということになってしまいますけど……。

いずれにせよ、曹叡が若くして亡くなったことは確か。頭の回転が速く、臣下を厚遇して国内をまとめたものの、無茶な宮殿造営を繰り返したりもしました。

曹叡の後は、曹芳・曹髦(そうぼう)・曹奐(そうかん)と3人の少帝が立てられ、魏は次第に傾いていくことになりました。魏に限ったことではありませんが、跡継ぎの扱いは難しいですね。

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