曹丕(そうひ) ※あざなは子桓(しかん)、魏(ぎ)の高祖(こうそ)文皇帝(ぶんこうてい)

【姓名】 曹丕(そうひ) 【あざな】 子桓(しかん)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 187~226年(40歳)

【吉川】 第120話で初登場。
【演義】 第032回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・文帝紀(ぶんていぎ)』あり。

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文学にも深い理解を示した魏(ぎ)の初代皇帝、高祖(こうそ)文皇帝(ぶんこうてい)

父は曹操(そうそう)、母は卞氏(べんし。武宣卞皇后〈ぶせんべんこうごう〉)。同母弟には曹彰(そうしょう)・曹植(そうしょく)・曹熊(そうゆう)がいる。

曹叡(そうえい)・曹協(そうきょう)・曹蕤(そうずい)・曹鑒(そうかん)・曹霖(そうりん)・曹礼(そうれい)・曹邕(そうよう)・曹貢(そうこう)・曹儼(そうげん)という9人の息子を儲けた。

曹丕は優れた文人でもあり、多くの著作を遺した。特に『典論(てんろん)』の中で、「文は経国の大業にして不朽の盛事なり」と、文(文章)を評価したことが有名。

220年2月、前月に亡くなった父の跡を継ぎ、丞相(じょうしょう)・魏王(ぎおう)となる。同年10月には、漢(かん)の献帝(けんてい)から禅譲を受ける形で帝位に即いた。

226年5月に洛陽(らくよう)で病死。帝位を継いだ曹叡から文皇帝と諡(おくりな)された。廟号(びょうごう)は高祖。

主な経歴

-187年(1歳)-
この年、沛国譙県で誕生。

-197年(11歳)-
?月、父の曹操の張繡(ちょうしゅう)討伐に従軍する。このとき異母兄の曹昂(そうこう)と従兄の曹安民(そうあんみん)が戦死したが、自身は何とか脱出できた。

-208年(22歳)-
この年、茂才(もさい)に推挙され、司徒(しと)の趙温(ちょうおん)から招聘(しょうへい)される。

しかし、父の曹操が献帝に、趙温がおもねっていると上奏したため、結局は招聘に応じなかった。

この年、異母弟の曹沖(そうちゅう)が病死した。

-211年(25歳)-
1月、五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)に任ぜられ、丞相(曹操)の補佐を務めることになる。

-217年(31歳)-
10月、父の曹操から魏の王太子に立てられる。

-220年(34歳)-
1月、父の曹操が崩御(ほうぎょ)する。

2月、父の跡を継ぎ、丞相・魏王となる。

2月、父の曹操の王后で、自身の実母でもある卞氏に王太后の尊称を奉る。

2月、布令を出す。「関所と津(わたしば)は旅の商人を通行させるためのものであり、池と御苑(ぎょえん)は災害を防ぐものであるのに、禁令を設けて重税を課すのは民に利便を与えることにならない」とし、「池にやなを張ることを禁ずる法を廃止したうえ、関所と津の税を軽減し、すべて10分の1に戻すように」というもの。

2月、諸侯王や将相以下、大将までの官にある者たちに1万斛(ごく)の粟(アワ)と1千匹の絹を授け、それぞれに等級をつけて金銀を賜与する。

また、使者を遣わして郡国を巡行させ、道理に反し、大きな顔をして人を踏みつけにしたり、暴虐を働く者があれば、その罪を弾劾するよう命じた。

2月、太中大夫(たいちゅうたいふ)の賈詡(かく)を太尉(たいい)に、御史大夫(ぎょしたいふ)の華歆(かきん)を相国(しょうこく)に、大理(だいり)の王朗(おうろう)を御史大夫に、それぞれ任ずる。

さらに散騎常侍(さんきじょうじ)と侍郎(じろう。散騎侍郎か?)を4人ずつ置いた。

官職に就いている宦官(かんがん)は、諸官署の令(れい)以上の位に昇ることを許さないものとし、金製の札を作って布令を記し、それを文書保管庫に納めさせた。

2月、父の曹操を高陵(こうりょう)に葬る。

3月、献帝が「建安(けんあん)」を「延康(えんこう)」と改元する。

『三国志』(魏書・文帝紀)の記事からは2月のことかと思わせるが、『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)には3月のこととあった。

3月、譙に黄龍が現れる。

3月、前将軍(ぜんしょうぐん)の夏侯惇(かこうとん)を大将軍(だいしょうぐん)に任ずる。

3月、濊貊(わいばく)と扶余(ふよ)の単于(ぜんう)および焉耆(えんき)と于闐(うてん。ホータン)の王から、それぞれ朝貢の使者がやってくる。

3月、史官に「重(ちょう)・黎(れい)・羲(ぎ)・和(か)(これらはいずれも古代の史官)の担当していた職務をつかさどり、大いなる天の命令に慎んで従い、日月星辰(じつげつせいしん)を数え写し、天の定める時(四季)を奉ずること」を命ずる。

3月、布令を出す。「もとの尚書僕射(しょうしょぼくや)の毛玠(もうかい)、奉常(ほうじょう)の王脩(おうしゅう)と涼茂(りょうぼう)、郎中令(ろうちゅうれい)の袁渙(えんかん)、少府(しょうふ)の謝奐(しゃかん)と万潜(ばんせん)、中尉(ちゅうい)の徐奕(じょえき)と国淵(こくえん)らは、みな忠直の士として朝廷にあり、仁愛と道義を旨としていたが、いずれも早くに世を去った。しかし子孫は衰微しており、惻々(そくそく)として哀れを覚える。彼らの息子をみな郎中(ろうちゅう)に任じよ」というもの。

4月、饒安県(じょうあんけん)から「白い雉(キジ)が現れた」との報告が届く。

4月、大将軍の夏侯惇が死去する。

5月、献帝から、もとの太尉の曹嵩(そうすう。曹丕の祖父)を追尊して太王(たいおう)と称し、その夫人だった丁氏(ていし。曹丕の祖母)を王太后と称するよう命ぜられる。

また、息子の曹叡が武徳侯(ぶとくこう)に封ぜられた。

5月、馮翊(ひょうよく)の山族の鄭甘(ていかん)と王照(おうしょう)が、手下を引き連れて降る。これを受けて、ふたりを列侯(れっこう)に封じた。

5月、酒泉(しゅせん)の黄華(こうか)と張掖(ちょうえき)の張進(ちょうしん)らが、それぞれ太守(たいしゅ)を捕らえて反乱を起こす。

金城太守(きんじょうたいしゅ)の蘇則(そそく)が張進を討伐し、これを斬った。黄華のほうは降伏した。

6月、鄴(ぎょう)の東郊で閲兵を行う。

6月、南方征討に出発。

7月、布令を出す。軒轅(けんえん。黄帝〈こうてい〉)と放勛(ほうくん。堯〈ぎょう〉)の時代の例を挙げ、「百官有司(担当官吏)は自己の職務に努め、忠言を尽くすように」というもの。

7月、孫権(そんけん)の使者が献上品を届けに来る。

7月、劉備(りゅうび)配下の孟達(もうたつ)が軍勢を引き連れて降伏したため、そのまま新城太守(しんじょうたいしゅ)としたうえ、列侯に封ずる。

7月、武都(ぶと)の氐族(ていぞく)の王である楊僕(ようぼく)が、族人らを引き連れて服属し、漢陽郡(かんようぐん)に移住する。

7月、軍勢をひきいて譙に到着。譙の東に全軍の兵士と県の長老や住民を集め、大供宴を催した。

7月、譙陵に参拝する。

8月、石邑県(せきゆうけん)から「鳳凰(ほうおう)が群れ集った」との報告が届く。

10月、布令を出す。「諸将の征伐に従軍して戦死した士卒には、まだ遺骸を収容できていない者がいる」として、「郡国に申し渡し、槥櫝(ひつぎ)を給付して遺骸を納め、家に送り届けたうえ、お上で祭祀(さいし)を執り行うように」というもの。

10月、曲蠡(きょくり)まで軍勢を進める。

10月、献帝の禅譲を受け入れて帝位に即く。この10月中には、献帝が禅譲を申し入れ、それを曹丕が辞退する、というやり取りが繰り返された。曹丕は、漢の「延康」を「黄初(こうしょ)」と改元したうえ、大赦を行った。

『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『献帝伝』には、曹丕が献帝の禅譲を受けたのは10月29日のこととある。

11月、漢の献帝を山陽公(さんようこう)に封ずる。その領邑(りょうゆう)は河内郡(かだいぐん)山陽県の1万戸とした。

また「漢の正朔(せいさく。暦)をそのまま使うこと」「天子(てんし)の儀礼によって天を祭ること」「上書する際に臣ととなえなくてもよいこと」を認め、都で太廟(たいびょう)の祭事を行ったときには供物を届けることとし、彼の4人の息子たちを列侯に封じた。

11月、皇祖の太王(曹嵩)を追尊して太皇帝(たいこうてい)の称号を、父の武王(ぶおう。曹操)に武皇帝(ぶこうてい)の称号を、それぞれ奉り、さらに王太后(卞氏)を尊んで皇太后の称号を奉る。

11月、民の男子に爵位を1級ずつ賜与し、跡継ぎや父母など目上の者によく仕える者、農事に熱心な者には、それぞれ爵位を2級与える。

11月、漢の諸侯王を崇徳侯(すうとくこう)に、同じく漢の列侯を関中侯(かんちゅうこう)に、それぞれ封ずる。

また潁陰県(えいいんけん)の繁陽亭(はんようてい)は、自身が禅譲を受けた地として繁昌県(はんしょうけん)と改めた。

封爵や官位の昇進を行ったが、人によって格差をつけた。

相国を司徒に、御史大夫を司空(しくう)に、奉常を太常(たいじょう)に、郎中令(ろうちゅうれい)を光禄勲(こうろくくん)に、大理を廷尉(ていい)に、大農(だいのう)を大司農(だいしのう)に、それぞれ改称した。

郡国の県や邑(ゆう。村)にも多くの変更があった。

匈奴(きょうど)の南単于(なんぜんう。王)の呼廚泉(こちゅうせん)に改めて璽綬(じじゅ)を授け、青蓋車(せいがいしゃ)・乗輿(じょうよ)・宝剣・玉玦(ぎょっけつ。1か所が切れている環状の玉)を賜与した。

12月、洛陽宮(らくようきゅう)の造営を命じ、17日には洛陽へ行幸する。

この年、陳羣(ちんぐん)の建議による「九品官人法(きゅうひんかんじんほう)」を制定した。

この年、同母弟の曹植を臨菑侯(りんしこう)から安郷侯(あんきょうこう)に貶(おと)し、その一派だった丁儀(ていぎ)・丁廙(ていい)兄弟らを処刑した。

-221年(35歳)-
1月、天地の祭りと明堂(めいどう。政堂)の祭祀を執り行う。

1月、木柵を作って鳥獣の退路をふさぎ、狩猟を催す。この際に原陵(げんりょう)まで行き、使者を遣わして太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)を捧げ、漢の世祖(せいそ。光武帝〈こうぶてい〉)を祭った。

1月、洛陽の東郊で太陽を祭る。

1月、孝廉(こうれん)の制度を見直す。人口10万未満の郡国では年にひとりの孝廉を推挙していたものを、格別に優秀な者がいるときは、人口や戸数で限定することなく推挙できるものと改めた。

1月、三公の領邑を分割し、その子弟ひとりずつを列侯に封ずる。

1月、潁川郡の田租を1年間免除する。

1月、許県(きょけん)を許昌県(きょしょうけん)と改め、魏郡の東部を陽平郡(ようへいぐん)に、西部を広平郡(こうへいぐん)に、それぞれ改組する。

1月、詔(みことのり)を下し、議郎(ぎろう)の孔羨(こうせん)を宗聖侯(そうせいこう)に取り立てたうえ、100戸の領邑を与えて孔子(こうし)の祭祀を奉じさせる。

また、魯郡(ろぐん)に命じて孔子の旧廟を修復させ、100戸の吏卒を置いて守護させた。さらに廟外に広大な屋敷を建て、学者たちを住まわせた。

3月、遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫恭(こうそんきょう)に車騎将軍(しゃきしょうぐん)の官を加える。

3月、五銖銭(ごしゅせん。漢代に通行し、董卓〈とうたく〉によって廃止された、重さ5銖の銅貨)を復活させる。

4月、車騎将軍の曹仁(そうじん)を大将軍に任ずる。

3月の公孫恭の記事との兼ね合いがつかめず。一時的に車騎将軍がカブっているように見えるが……。

4月、蜀(しょく)の劉備が帝位に即く。

5月、鄭甘が再び反乱を起こす。曹仁が討伐にあたり、鄭甘を斬った。

6月、五岳(ごがく。泰山〈たいざん〉・華山〈かざん〉・衡山〈こうざん〉・恒山〈こうざん〉・嵩山〈すうざん〉)および四瀆(しとく。長江〈ちょうこう〉・黄河〈こうが〉・淮水〈わいすい〉、済水〈せいすい〉)を、それぞれの格に応じて祭る。

6月、都(洛陽)の宗廟が完成していなかったため、建始殿(けんしでん)で武皇帝(曹操)を祭る。この際、曹丕自ら供物を手にし、家庭の礼のごとく執り行った。

6月、夫人の甄氏(しんし)が死去する。

6月、日食が起こり、担当官吏から「太尉を罷免されますように」との上奏がある。

しかし詔を下し、「災害異変は元首を譴責(けんせき)するものである」として、「今後は天災があっても、二度と三公を弾劾しないように」と命じた。

8月、孫権の使者が上奏し、領内に留めていた于禁(うきん)らを送り帰してくる。

8月、太常の邢貞(けいてい)に節(せつ。使者のしるし)を持たせて孫権のもとに遣わし、孫権を大将軍に任じたうえ呉王(ごおう)に封じ、九錫(きゅうせき)を加える。

10月、楊彪(ようひゅう)を光禄大夫(こうろくたいふ)に任ずる。

?月、穀物の高騰により五銖銭を廃止する。

11月、鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の曹真(そうしん)が大勢の将軍や州郡の兵に命令を下し、反乱を起こした蛮族の治元多(ちげんた)・盧水(ろすい)・封賞(ほうしょう)らを討伐する。

魏軍は5万余の首を斬り、10万人の捕虜を得たうえ、111万匹の羊と8万頭の牛を捕獲。これにより河西(かせい)が平定された。

11月、大将軍の曹仁を大司馬(だいしば)に任ずる。

ここも8月の孫権の記事との兼ね合いがつかめず。一時的に大将軍がカブっているように見えるが……。

12月、東方を巡幸する。

この年、陵雲台(りょううんだい)を築いた。

この年、息子で武徳侯の曹叡を斉公(せいこう)に移封した。また、同母弟で鄢陵侯(えんりょうこう)の曹彰を鄢陵公に進めるなど、一族の多くを侯から公に進めた。だが、同母弟で安郷侯の曹植は、鄄城侯(けんじょうこう)に移封しただけだった。

-222年(36歳)-
1月、日食が起こる。

1月、許昌宮(きょしょうきゅう)に行幸する。

1月、詔を下す。現在の上計吏(じょうけいり)と孝廉に触れ、郡国に対して「選抜者の年齢にこだわらないように」と命ずるもの。

「経学(けいがく)に通じている儒者や、法に通じている者は全員を試用する」としたうえ、担当官吏には「故意に事実に合わない推挙をした者があれば糾弾せよ」とも命じた。

2月、呉王の孫権から上奏文が届く。劉備の軍勢4万と馬2、3千頭が秭帰(しき)を出たことを伝えたうえ、劉備軍を掃討する意思を示したもの。

これを受け、曹丕は孫権に激励の返書を送った。

2月、鄯善(ぜんぜん)・亀茲(きゅうじ)・于闐といった西域の都市国家の王が、それぞれ使者を遣わして献上品を奉る。

これを受けて詔を下し、「服属してきた外民族をいたわり、ねぎらうように」と命じた。これ以後、西域との交通がなされるようになったため、戊己校尉(ぼきこうい)を置いた。

3月、息子で斉公の曹叡を平原王(へいげんおう)に移封し、同母弟で鄢陵公の曹彰ら11人も、みな王に進める。

また、封王(ほうおう。最初に位に即いた王)の庶子(しょし。ここでは継嗣以外の息子)を郷公(きょうこう)とし、嗣王(しおう)の庶子を亭侯(ていこう)とし、公の庶子を亭伯(ていはく)とする制度を定めた。

3月、息子の曹霖を河東王(かとうおう)に封ずる。

3月、襄邑(じょうゆう)に行幸する。

4月、同母弟で鄄城侯の曹植を鄄城王に封ずる。

4月、許昌宮に還幸する。

5月、荊州(けいしゅう)および揚州(ようしゅう)の江南(こうなん)にある8郡をもって荊州と定める。

これは荊州牧(けいしゅうぼく)を兼ねていた呉王の孫権に配慮した措置で、荊州の江北(こうほく)にある諸郡は郢州(えいしゅう)と定めた。

閏06月、呉王の孫権から、夷陵(いりょう)で劉備軍を撃破したとの上奏文が届く。

7月、冀州(きしゅう)で大規模な蝗(イナゴ)の被害が発生し、民が飢える。

これを受けて尚書(しょうしょ)の杜畿(とき)に節を持たせ、官倉を開いて救済するよう命じた。

8月、蜀の黄権(こうけん)が軍勢をひきいて降伏してくる。

9月、詔を下す。「婦人が政治に関与することは乱の本源である」として、「今後、群臣は太后に政事を上奏してはならない」というもの。

また「后(きさき)の一族は政事を補佐する任務を引き受けてはならない」とし、「ほしいままに領地を伴う爵位を受けてはならない」とした。

そして「もし違反する者があれば、天下は協力して誅滅せよ」とも命じた。

9月、郭氏(かくし)を皇后に立てる。

この際、天下の男子に2級ずつ爵位を授けた。また、連れ合いのない男女や重病人、貧窮して自立できない者には穀物を下賜した。

9月、曹休(そうきゅう)・張遼(ちょうりょう)・臧霸(そうは)らを遣わし、洞口(どうこう)まで軍勢を進めさせる。

さらに曹仁には濡須(じゅしゅ)まで軍勢を進めさせ、曹真・夏侯尚(かこうしょう)・張郃(ちょうこう)・徐晃(じょこう)には南郡(なんぐん)を包囲するよう命ずる。

これに対し、呉王の孫権は呂範(りょはん)らに命じ、五軍を指揮して水軍をもって曹休らの進出を食い止めさせ、諸葛瑾(しょかつきん)・潘璋(はんしょう)・楊粲(ようさん)を南郡の救援に向かわせ、朱桓(しゅかん)を濡須督(じゅしゅとく)に任じて曹仁の進攻を食い止めさせようとした。

10月、首陵山(しゅりょうざん)の東に寿陵(生前に造る陵墓)を築かせ、葬礼の制度をあらかじめ定める。

10月、先に設置した郢州を廃止し、もとの荊州に戻す。

10月、曹丕自身も孫権討伐のために許昌から出撃する。孫権は「黄武(こうぶ)」と年号を定めて自立の意思を示し、長江沿いの防備を固めた。

11月、大風が吹き、呉の呂範の兵に数千の溺死者が出る。このため残った呉軍は江南へ引き揚げた。

11月、曹休が臧霸に命じ、決死隊1万と快速船500艘(そう)により、丹徒(たんと)の徐陵(じょりょう)を襲撃させる。臧霸は呉の攻城車を焼いて、数千人を殺したり捕虜にした。

その一方、呉の将軍の全琮(ぜんそう)と徐盛(じょせい)の追撃を受けて部将の尹盧(いんろ)が斬られ、数百人が殺されたり捕らえたりした。

11月、宛(えん)に行幸する。

?月、夏侯尚に諸軍を統率させ、曹真と協力して呉の江陵(こうりょう)を包囲させる。呉の諸葛瑾は長江の中流にある中洲(なかす)に渡り、別に水軍を江上に待機させた。

夏侯尚は、夜中に下流から長江を渡って諸葛瑾の諸軍を攻め、船に火をかけた後、水陸両軍で一斉に攻め立てて撃破した。

しかし、江陵城を陥落させる前に疫病が大流行したため、曹丕は夏侯尚に引き揚げを命じた。

11月、日食が起こる。

12月、呉の孫権が太中大夫の鄭泉(ていせん)を遣わし、白帝(はくてい)にいた蜀の劉備を聘問(へいもん)させる。これにより、呉と蜀は再び友好関係を回復した。

この年、霊芝池(れいしち)を掘らせた。

-223年(37歳)-
1月、曹真が軍勢を分け、その一隊が江陵の中洲を占領する。

1月、呉の孫権が、夏口(かこう)の江夏山(こうかざん)に城壁を築かせる。

1月、詔を下す。「四海の内は平定されたばかりである」として、「自分勝手に個人的な復讐をする者は、みな族殺する」というもの。

?月、宛に南巡台(なんじゅんだい)を築く。

3月、曹仁が将軍の常彫(じょうちょう。常雕か?)らを遣わし、兵5千を油船(油を塗った皮をかぶせた船)に乗せ、明け方に濡須の中洲に渡らせる。

曹仁の息子の曹泰(そうたい)は、そこを足場に呉の朱桓を激しく攻め立てた。朱桓は手勢で防戦する一方、将軍の厳圭(げんけい)らを遣わして常彫を討ち破った。この3月のうちに魏軍は撤退した。

3月、宛から洛陽に還幸。

3月、月が心宿(しんしゅく。さそり座の中央部)の中央の大星(大火〈たいか〉。さそり座のアンタレス)を犯す。

3月、詔を下し、先の呉との各方面での戦いぶりを総括する。

3月、大司馬の曹仁が死去する。

3月、疫病が大流行する。

4月、蜀の劉備が死去し、翌5月に息子の劉禅(りゅうぜん)が跡を継いだ。

5月、鵜鶘(ペリカン)が霊芝池に群がったことを受けて詔を下す。

「この鳥は『詩経(しきょう)』でいう汚沢(おたく)である」として、曹風(そうふう)の詩(候人〈こうじん〉)を挙げ、「天下にいる、優れた徳を持ち、立派な才能を持つ人物、ずば抜けた品行の君子を広く推挙し、曹国の人の風刺に応えよ」というもの。

6月、担当官吏からふたつの廟の造営を求める上奏がある。

「太皇帝(祖父の曹嵩)の廟を建て、大長秋(だいちょうしゅう)・特進侯(とくしんこう。曾祖父の曹騰〈そうとう〉)は高祖(こうそ。曹丕の祖父の祖父にあたる曹節〈そうせつ〉)と合祭し、近しい関係が断ち切れれば、順序に従って廃止されますように、特に武皇帝(父の曹操)の廟をお建てになり、季節ごとに供物を捧げて祭祀をされ、魏の太祖(たいそ)として1万年の後まで廃止されませんように」というもの。

6月、同母弟で任城王(じんじょうおう)の曹彰が、洛陽で急死する。

6月、太尉の賈詡が死去する。

6月、太白星(たいはくせい。金星)が昼間に現れる。

6月、大雨によって伊水(いすい)と洛水(らくすい)があふれ、多くの民が亡くなり、家屋も破壊される。

6月、呉の孫権が将軍の賀斉(がせい)に命じ、麋芳(びほう)と劉邵(りゅうしょう)らをひきいて蘄春(きしゅん)へ攻め寄せる。

劉邵らの手により、先に呉から寝返ったため蘄春太守(きしゅんたいしゅ)に任じていた晋宗(しんそう)が生け捕りにされた。

7月、東方巡幸に従う大軍が出発するにあたり、太常を遣わし、大きな牡牛(おうし)1頭を捧げて郊外で天を祭り、軍勢の出発を報告させる。

8月、廷尉の鍾繇(しょうよう)を太尉に任ずる。

8月、担当官吏から上奏がある。

「漢氏の宗廟で奏されます安世楽(あんせいがく)を正世楽(しょうせいがく)に、嘉至楽(かしがく)を迎霊楽(げいれいがく)に、武徳楽(ぶとくがく)を武頌楽(ぶしょうがく)に、昭容楽(しょうようがく)を昭業楽(しょうぎょうがく)に、雲翹舞(うんぎょうぶ)を鳳翔舞(ほうしょうぶ)に、育命舞(いくめいぶ)を霊応舞(れいおうぶ)に、武徳舞(ぶとくぶ)を武頌舞(ぶしょうぶ)に、文始舞(ぶんしぶ)を大韶舞(たいしょうぶ)に、五行舞(ごぎょうぶ)を大武舞(たいぶぶ)に、それぞれ改称されますように」というもの。

8月、滎陽(けいよう)で木柵を作って狩猟を行い、そのまま東へ巡幸する。

巡幸の間に孫権征討の時の論功行賞を実施し、諸将以下、それぞれ働きに応じて爵位を進め、領邑の加増を行った。

9月、許昌宮に行幸する。

12月、山陽公(漢の献帝の劉協〈りゅうきょう〉)の夫人(曹節〈そうせつ〉。曹操の娘で曹丕の妹)に化粧料として領地を賜与し、その娘の曼(まん。劉曼〈りゅうまん〉)を長楽郡公主(ちょうらくぐんこうしゅ)に封ずる。領地は500戸ずつとした。

冬、芳林園(ほうりんえん)に甘露が降りる。

この年、同母弟の曹植を、鄄城王から雍丘王(ようきゅうおう)に移封した。

-224年(38歳)-
1月、詔を下す。「反逆の企てと大逆罪の場合は密告してもよいが、それ以外の場合は、密告に耳を貸したり取り調べをしてはならない」というもの。「大胆にもでたらめの密告をする者があれば、密告された者の罪をもって密告した者を断罪する」とした。

3月、許昌から洛陽宮に還幸する。

4月、太学(たいがく)を建てて五経(ごきょう)の試験の法を制定し、『春秋(しゅんじゅう)』の穀梁博士(こくりょうはくし)の官を置く。

5月、担当官吏から上奏がある。「公卿(こうけい)が朔(さく。1日)と望(ぼう。15日)の日に参朝した際、疑事を上奏し、政治に関する重大事を聴取して判断を下し、その得失について議論し、判定されるようしていただきたい」というもの。

7月、東方へ巡幸し、許昌宮に到着する。

8月、水軍を編成して自ら龍舟(りょうしゅう)に乗り、蔡河(さいが)と潁水(えいすい)を通って淮水に進み、寿春(じゅしゅん)へ行幸する。

8月、揚州の境域にいる将兵や民のうちで、5年以下の刑にあたる罪人をみな赦免する。

9月、広陵(こうりょう)まで進み、青州(せいしゅう)・徐州(じょしゅう)の両州に免赦令を下し、守備にあたる諸将を変更する。

10月、太白星が昼間に現れる。

10月、許昌宮に還幸する。

10月、詔を下す。「いま事は多くて民は少なく、上下とも法によって苦しめられ、民は手足を置く場所もないありさまである」と述べ、「広く刑罰の軽減について論議し、民に恩恵を与えよ」というもの。

11月、飢饉(ききん)に陥った冀州へ使者を遣わし、官倉を開いて住民を救済させる。

11月、日食が起こる。

12月、詔を下す。「先王(古代の聖王)が礼を制定されたのは、孝道を明らかにして先祖に仕えるためである。その最高のものは、天地の祭祀である郊(こう)と社(しゃ)、その次が先祖を祭る宗廟の祭祀である。しかし三辰(さんしん。日・月・星)・五行(ごぎょう。木・火・土・金・水)・名山・大川はこの類いでなく、祀典(してん)の例に入らない」とし、「今後、あえて祭るべきでない祭祀を設けて巫祝(みこ)の言葉を用いる者は、すべて道に外れた行為として裁く」とした。

この年、天淵池(てんえんち)を掘らせた。

-225年(39歳)-
2月、使者を遣わし、許昌以東、沛郡の全域を巡行させ、「民の困苦を慰問し、貧民に救済策を施すように」と命ずる。

2月、詔を下す。「尚書令(しょうしょれい)・潁郷侯(えいきょうこう)の陳羣を鎮軍大将軍(ちんぐんだいしょうぐん)に、尚書僕射・西郷侯(せいきょうこう)の司馬懿(しばい)を撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)に、それぞれ任ずる」というもの。

そして「もし朕が長江に向かい、諸将に策を授ける場合には、撫軍将軍(司馬懿)は許昌に留守し、後部にいる諸軍を統率せよ。留守の尚書台において文書の事をつかさどるように、鎮軍将軍(陳羣)は御車(みくるま)に随行し、衆軍を統率して行尚書事(こうしょうしょじ)を受け持つように」と命じ、ふたりを仮節(かせつ)としたうえ鼓吹(こすい。軍楽隊)を与え、中軍の歩騎600人を護衛として支給した。

3月、召陵(しょうりょう)に行幸し、討虜渠(とうりょきょ。運河)の開通を視察する。

3月、許昌宮に還幸する。

3月、幷州刺史(へいしゅうしし)の梁習(りょうしゅう)が鮮卑(せんぴ)の軻比能(かひのう)を討伐し、これを散々に討ち破る。

閏3月、水軍を整えて、自ら東方征討に赴く。

5月、譙に到着する。

5月、熒惑星(けいわくせい。火星)が太微(たいび。星垣〈せいえん〉。しし座の西端にある10星)に入る。

6月、利成郡(りせいぐん)の兵士である蔡方(さいほう)らが郡を挙げて背き、利成太守(りせいたいしゅ)の徐質(じょしつ)を殺害する。

これを受けて、屯騎校尉(とんきこうい)の任福(じんふく)と歩兵校尉(ほへいこうい)の段昭(だんしょう)を遣わし、青州刺史(せいしゅうしし。王淩〈おうりょう〉)と協力して討伐にあたらせた。

この反乱に加わった者のうち、脅迫されたり無理やり引き込まれた者、および反乱の発生により亡命した者については全員の罪を許した。

7月、息子の曹鑒を東武陽王(とうぶようおう)に封ずる。

8月、水軍をひきいて譙を発ち、渦水(かすい)を通って淮水に入り、陸路を進んで徐(じょ)に到着する。

9月、東巡台(とうじゅんだい)を築く。

10月、広陵の古城に赴き、長江を前に閲兵を行う。このとき魏の軍勢は10余万にも上り、数百里にわたって軍旗がはためいた。

10月、軍勢を引き揚げる。この年は厳しい寒さで水路が凍結したため、長江に船を進めることができなかった。

11月、息子で東武陽王の曹鑒が薨去(こうきょ)する。

12月、譙を発ち、梁(りょう)に行幸する。ここで使者を遣わして太牢を捧げさせ、もとの漢の太尉である橋玄(きょうげん)を祭らせた。

-226年(40歳)-
1月、許昌に到着した際、理由もなく城門が崩壊する。これを不吉と考えて、許昌には入城しなかった。

1月、洛陽宮に還幸する。

3月、九華台(きゅうかだい)を築く。

5月、病が重くなり、ようやく曹叡を皇太子に立てる。

5月、危篤に陥り、中軍大将軍(ちゅうぐんだいしょうぐん)の曹真、鎮軍大将軍の陳羣、征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の曹休、撫軍大将軍の司馬懿を召し寄せる。彼ら4人に遺詔を授け、継主を補佐するよう命じた。

さらに、後宮の淑媛(しゅくえん。妃妾〈ひしょう〉の位)や昭儀(しょうぎ。妃妾の位)以下の宮女を実家に帰らせた。

5月、嘉福殿(かふくでん)で崩御。

管理人「かぶらがわ」より

父の曹操が実力主義を徹底したため、正式な跡継ぎとして指名されるまで、曹丕には数多くの困難が待ち受けていました。特に、希代の文才を備えていた弟の曹植との関係が興味深いです。

『三国志演義』では多分に脚色されているものの、曹植の封地を頻繁に移すといった扱いをしていたのは事実。いろいろな捉え方はあるでしょうが、度量という点ではいまひとつだったのかも。

また、軍事では大した戦果を上げられませんでしたが、国が傾くような大敗を繰り返したりもしていません。このあたりの才能は「曹操譲り」とはいかなかったようです。

それでも国を統治する能力は十分に備えていたと思われ、偉大な父や華やかな弟たちと比べられ、曲がったところだけ大きく取り上げられすぎている印象を受けます。

曹操並みにとまではいかなくても、あと10年を経てから曹叡に引き継いでいたら、後世の曹丕の評価はどれほど変わっていたのでしょうか?

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