【姓名】 聶友(じょうゆう) 【あざな】 文悌(ぶんてい)
【原籍】 豫章郡(よしょうぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・諸葛恪伝(しょかつかくでん)』に付された「聶友伝」あり。
虞翻(ぐはん)や諸葛恪から評価された将軍
父母ともに不詳。
聶友は弁才があり、若いころに県吏となった。
虞翻が、孫権(そんけん)の怒りを買って交州(こうしゅう)に配流されたとき、聶友は県令(けんれい)の命を受け、配所への出発を見送る。
虞翻は聶友と語り合って才能を評価し、豫章太守(よしょうたいしゅ)の謝斐(しゃひ)に手紙を送り、聶友を功曹(こうそう)に起用するよう勧めた。謝斐は現任の功曹を説得して職を譲らせ、聶友を用いることにした。
後に聶友が都に使いした際、諸葛恪は彼と対等の友人関係を結ぶ。
当時は顧譚(こたん)と顧承(こしょう)の評判が高く、ふたりに並ぶ者はないと言われていたが、諸葛恪が聶友を同格に扱おうとしたため、彼の名も知られるようになった。
★顧譚と顧承は顧邵(こしょう)の息子で、顧雍(こよう)の孫。
242年、将軍の聶友は校尉(こうい)の陸凱(りくかい)とともに3万の軍勢をひきい、珠崖(しゅがい)および儋耳(たんじ)の討伐に向かう。そして帰還後に丹楊太守(たんようたいしゅ)に任ぜられた。
252年、諸葛恪が東興(とうこう)で魏軍(ぎぐん)を大破し、莫大(ばくだい)な鹵獲品(ろかくひん)を得て凱旋(がいせん)した。
翌253年春、昨年の大勝に慢心した諸葛恪は、再び軍勢を動かしたいと願い出る。
重臣たちは兵士の疲労を考慮して諫めたが、諸葛恪は再出兵の意義を説明する論を著し、皆の反対を抑えようとした。聶友も手紙を送って諸葛恪を思いとどまらせようとしたが、やはり聞き入れてもらえなかった。
諸葛恪は州郡に大動員を発令して20万の大軍をそろえたが、人々の間で騒動が起こり、一気に求心力が衰える。
同年4月、出兵を強行した諸葛恪は魏の合肥新城(ごうひしんじょう)を包囲するも、なかなか陥せない。そのうち軍中で疫病が流行し、得るところなく撤退に追い込まれた。
これで諸葛恪は完全に声望を失い、彼に対する怨嗟(えんさ)の声も高まっていった。
同年8月、諸葛恪が敗軍をひきいて帰還する。
諸葛恪は、すぐさま中書令(ちゅうしょれい)の孫嘿(そんもく)を呼びつけて八つ当たりぎみに叱責したり、遠征中に実施された人事のやり直しを命じたりした。
また、自分の威信を保とうとして多くの者の罪を責め立てたので、彼の前に出る者はみな息を潜めた。
さらに諸葛恪は、宮中の宿衛にあたる者を自分と親しい者に入れ替えたうえ、新たに青州(せいしゅう)や徐州(じょしゅう)への出兵をもくろむ。
武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の孫峻(そんしゅん)は人々の不満が高まっている状況を見て、この機会に諸葛恪を除こうと考える。
そこで孫亮(そんりょう)と相談して一計を案ずると、同年10月、宮中で催された宴席で諸葛恪を誅殺した。
次いで孫峻は、諸葛恪と親しかった聶友も鬱林太守(うつりんたいしゅ)として転出させようとする。
だが聶友は病に倒れ、憂悶(ゆうもん)のうちに死去(時期は不明)した。
管理人「かぶらがわ」より
本伝には記事が少なく、裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』から多くを補いました。
なお『呉録』には、聶友は33歳で死去したとあったのですけど、これではだいぶ若すぎると思います。
仮に諸葛恪が誅殺された年(253年)に聶友が33歳で亡くなったのだとしたら、彼は221年生まれということになりますけど……。
そうすると242年に22歳の若さで将軍だったことになりますし、それ以前に何歳で豫章郡の功曹になったのかという疑問も出てきます。
聶友の享年については保留ですね。
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