滕胤(とういん) ※あざなは承嗣(しょうし)

【姓名】 滕胤(とういん) 【あざな】 承嗣(しょうし)

【原籍】 北海国(ほっかいこく)劇県(げきけん)

【生没】 ?~256年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・滕胤伝』あり。

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優れた人格や誠実な仕事ぶりをたたえられるも、孫綝(そんりん)の排除に失敗して族滅の憂き目

父は滕冑(とうちゅう)だが、母は不詳。滕耽(とうたん)は伯父。滕牧(とうぼく。滕密〈とうみつ〉)は同族。妻は孫霸(そんは)の娘。諸葛恪(しょかつかく)の息子の諸葛竦(しょかつしょう)や呉纂(ごさん)に嫁いだ娘がいた。

滕胤の家は同じ青州(せいしゅう)出身の劉繇(りゅうよう)の家と親しく、代々婚姻関係を結ぶ間柄だった。

そのため滕胤は、世の中が騒がしくなると長江(ちょうこう)を渡り、揚州牧(ようしゅうぼく)を務めていた劉繇のもとに身を寄せる。

ところが194年、劉繇は孫策(そんさく)と戦って敗れ、翌195年に病死した。

劉繇は東萊郡(とうらいぐん)牟平県(ぼうへいけん)の出身。前漢(ぜんかん)の斉孝王(せいこうおう。高祖〈こうそ〉の孫の劉将閭〈りゅうしょうりょ〉。父は斉悼恵王〈せいとうけいおう〉こと劉肥〈りゅうひ〉)の後裔(こうえい)にあたる。

209年、孫権(そんけん)が車騎将軍(しゃきしょうぐん)になると、伯父の滕耽は右司馬(ゆうしば)を務め、寛厚な人柄をもってたたえられたが、早くに死去(時期は不明)して跡継ぎもいなかった。

父の滕冑は優れた文章を書くことができたので、孫権から賓客の待遇を受け、軍事や政事に関する書類の手直しを任されたが、彼もまた不幸にして短命に終わった(こちらも時期は不明)。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、滕冑は滕胤が12歳の時に死去したという。

221年、孫権が魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から呉王に封ぜられると、生前の滕冑の働きを思い起こし、息子の滕胤を都亭侯(とていこう)に封じた。滕胤は若いころから節操があり、その容儀も立派だったという。

滕胤は20歳の時に孫霸の娘を娶(めと)り、30歳で官途に就いた。丹楊太守(たんようたいしゅ)を振り出しに、呉郡太守や会稽太守(かいけいたいしゅ)を歴任したが、どの任地でも評判は良かった。

251年、孫権の病状が悪化すると、滕胤は見舞いのために都へ上る。このとき太常(たいじょう)に任ぜられ、そのまま都に留まることになった。

翌252年4月、孫権が危篤に陥ると、滕胤・諸葛恪・孫弘(そんこう)・呂拠(りょきょ)・孫峻(そんしゅん)の5人が枕頭(ちんとう)に呼ばれて後事を託された。翌日に孫権は崩じ、この月のうちに孫亮(そんりょう)が帝位を継ぐ。

同年閏4月、滕胤は衛将軍(えいしょうぐん)の官位を加えられ、諸葛恪ともども尚書(しょうしょ)を兼ねる。

先の229年、孫権は武昌(ぶしょう)から建業(けんぎょう)へ遷都すると、翌230年には東興(とうこう)に堤を築いて巣湖(そうこ)をせき止めた。

後に淮南(わいなん)へ進軍した際、その堤を破壊して船を入れたが、以後は改修せずに放置していた。

同年(252年)10月、諸葛恪は人数を集めて東興に大規模な堤を造り、左右の山地にふたつの城も築く。両城に1千人ずつ兵士を置き、全端(ぜんたん)と留略(りゅうりゃく)に守備を命ずると、自身は軍勢をまとめて引き揚げた。

同年12月、魏の胡遵(こじゅん)や諸葛誕(しょかつたん)が7万の軍勢をひきい、両城を包囲して堤を破壊しようとしたため、諸葛恪は4万の軍勢をもって救援に駆けつける。

先鋒を務めた留賛(りゅうさん)・呂拠・唐咨(とうし)・丁奉(ていほう)といった将軍たちの活躍により、大勝を収めた呉軍は莫大(ばくだい)な鹵獲品(ろかくひん)とともに凱旋(がいせん)した。

翌253年春、昨年の大勝に慢心した諸葛恪が、再び軍勢を動かしたいと願い出る。

重臣たちは兵士の疲労を考慮して諫めたが、諸葛恪は再出兵の意義を説明する論を著し、皆の反対を抑えようとした。滕胤もまた諸葛恪を諫めたが、やはり聞き入れてもらえなかった。

そこで滕胤は都下督(とかとく)として都に残り、諸葛恪の留守中の諸事を統括。昼は賓客に応対する一方、夜を徹して公文書に目を通すこともあったという。

諸葛恪は州郡に大動員を発令して20万の大軍をそろえたが、人々の間で騒動が起こり、一気に求心力が衰える。

同年4月、諸葛恪は魏の合肥新城(ごうひしんじょう)を包囲したものの、なかなか陥せない。そのうち軍中で疫病が流行し、得るところなく撤退に追い込まれた。

これで諸葛恪は完全に声望を失い、彼に対する怨嗟(えんさ)の声も高まっていった。

同年8月、諸葛恪が敗軍をひきいて帰還する。

諸葛恪は、すぐさま中書令(ちゅうしょれい)の孫嘿(そんもく)を呼びつけて八つ当たりぎみに叱責したり、遠征中に実施された人事のやり直しを命じたりした。

また、自分の威信を保とうとして多くの者の罪を責め立てたので、彼の前に出る者はみな息を潜めた。

さらに諸葛恪は、宮中の宿衛にあたる者を自分と親しい者に入れ替えたうえ、新たに青州や徐州(じょしゅう)への出兵をもくろむ。

武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の孫峻は人々の不満が高まっている状況を見て、この機会に諸葛恪を除こうと考える。

そこで孫亮と相談して一計を案ずると、同年10月、宮中で催された宴席で諸葛恪を誅殺した。

ほどなく孫峻は丞相(じょうしょう)・大将軍(だいしょうぐん)・督中外諸軍事(とくちゅうがいしょぐんじ)・仮節(かせつ)に昇進し、富春侯(ふしゅんこう)に爵位が進む。

一方で滕胤は、諸葛恪の息子の諸葛竦に嫁がせた娘がいたため辞職を願い出る。

だが孫峻はこれを認めず、かえって滕胤の爵位を高密侯(こうみつこう)に進めたうえ、これまで通り共同で政治を行った。

256年、孫峻が急死すると、従弟の孫綝が侍中(じちゅう)・武衛将軍・領中外諸軍事(りょうちゅうがいしょぐんじ)に任ぜられ、代わって朝政を取り仕切った。

このとき遠征中だった驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の呂拠は、話を聞くと自分の立場を危うく感じ、部将たちと連名で上表を行い、滕胤を丞相に推薦する。

しかし孫綝は、滕胤を丞相ではなく大司馬(だいしば)に任じ、呂岱(りょたい)に替えて武昌に駐屯するよう命じた。

呂拠は急いで引き返すと、人を遣って滕胤と連絡を取り合い、孫綝を排除しようとする。

孫綝もこの動きを聞くと、従兄の孫慮(そんりょ。孫憲〈そんけん〉)や文欽(ぶんきん)・劉纂(りゅうさん)・唐咨らの軍勢を繰り出し、呂拠を自殺に追い込む(処刑された可能性もありそう)。

さらに侍中・左将軍(さしょうぐん)の華融(かゆう)と中書丞(ちゅうしょじょう)の丁晏(ていあん)を遣り、滕胤に呂拠を捕縛する旨を伝えさせたうえ、速やかに武昌へ赴任するよう促した。

滕胤は危機が迫っているのを感じ、そのまま華融と丁晏を軟禁して守りを固める。

そして典軍(てんぐん)の楊崇(ようすう)と将軍の孫咨(そんし)を呼び寄せ、孫綝が謀反を起こしたと告げ、華融らに迫って孫綝を非難する手紙を書かせた。

だが孫綝は手紙を無視し、滕胤が謀反を起こしたと上表。将軍の劉丞(りゅうじょう。劉承〈りゅうしょう〉と同一人物の可能性が高い)に爵位を約束し、歩騎をもって滕胤を攻囲させた。

滕胤は華融らを脅し、偽の詔(みことのり)を作らせて軍勢を動かそうとしたが、彼らが従わなかったので皆殺しにする。

ある者が滕胤に言った。

「兵をひきいて蒼龍門(そうりょうもん。建業の東門)までお進みになれば、城内の将士はあなたさまのお姿を見、きっと孫綝を見捨てて駆けつけることでしょう」

それでも滕胤は、呂拠が約束通りに戻ってくることを期待しており、夜中に宮殿へ兵を向けることも憚(はばか)られたので進言を容れなかった。

結局、夜が明けても呂拠は到着せず、孫綝が動員した大軍の前に、滕胤は三族(父母・妻子・兄弟姉妹。異説もある)ともども皆殺しにされてしまった。

管理人「かぶらがわ」より

滕胤は人望のある優秀な政治家で、孫綝とは対立関係になかったといいますけど、呂拠の協力要請を拒んで武昌へ行ったとしても、いずれは孫綝との間に波風が立っていたことでしょう。

その孫綝も増長が募り、258年には誅殺されています。滕胤の死によって、呉は有力な丞相候補を失いましたね。

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