龐悳(ほうとく。龐徳) ※あざなは令明(れいめい)

【姓名】 龐悳(ほうとく) 【あざな】 令明(れいめい)

【原籍】 南安郡(なんあんぐん)狟道県(かんどうけん)

【生没】 ?~219年(?歳)

【吉川】 第182話で初登場。
【演義】 第058回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・龐悳伝』あり。

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劉備(りゅうび)には降らず、曹操(そうそう)への忠義を全う、諡号(しごう)は壮侯(そうこう)

父母ともに不詳。息子の龐会(ほうかい)は跡継ぎで、ほかにも多くの息子がいたことがうかがえる。

龐悳は若いころ郡吏となり、後に州の従事(じゅうじ)に転ずる。

初平(しょへい)年間(190~193年)、馬騰(ばとう)に付き従い、反乱を起こした羌族(きょうぞく)や氐族(ていぞく)を討伐。たびたび戦功を立てて校尉(こうい)となった。

202年、曹操が黎陽(れいよう)の袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)を攻撃すると、袁譚は郭援(かくえん)や高幹(こうかん)らを遣り、河東(かとう)を攻略しようとした。

この動きを受けて曹操は、鍾繇(しょうよう)に関中(かんちゅう)の諸将をひきいて迎撃させる。

龐悳は馬超(ばちょう)に付き従い、平陽(へいよう)で敵を防いだ。このとき先鋒を務めて散々に討ち破り、自ら郭援の首を斬る。功により中郎将(ちゅうろうしょう)に任ぜられ、都亭侯(とていこう)に封ぜられた。

後に黄巾(こうきん)の張白騎(ちょうはくき)が弘農(こうのう)で反乱を起こすと、龐悳は再び馬騰に付き従って討伐にあたり、東西の殽山(こうざん)の間で撃破した。戦うたびに敵陣を陥れ、その武勇は馬騰の軍中でも第一だったという。

208年、馬騰が朝廷に召されて衛尉(えいい)になると、そのまま龐悳は槐里(かいり)に留まり馬超に仕える。

211年、曹操が渭南(いなん)で馬超を討ち破ると、龐悳は馬超とともに漢陽(かんよう)へ逃げ込み、冀城(きじょう)に立て籠もった。

214年、龐悳は馬超に付き従って漢中(かんちゅう)へ逃げ、張魯(ちょうろ)に属す。

この年、馬超は成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を包囲していた劉備のもとへ奔ったが、龐悳は一緒に行けなかった。

翌215年、曹操が漢中を平定すると、龐悳は配下の軍勢とともに降伏した。

曹操は彼の武勇について聞いていたため、立義将軍(りつぎしょうぐん)に任じて関門亭侯(かんもんていこう)に封ずる。封邑(ほうゆう)は300戸だった。

218年、侯音(こうおん)と衛開(えいかい)らが宛(えん)で反乱を起こす。

219年、龐悳は曹仁(そうじん)とともに宛を攻め落とし、侯音と衛開を斬る。そのまま南下して樊(はん)に駐屯し、劉備配下の関羽(かんう)と対峙(たいじ)した。

樊の諸将は、兄(従兄)の龐柔(ほうじゅう)が劉備に仕えていたことから、龐悳に大きな疑いを抱く。

だが、いつも龐悳は言っていた。

「私は国恩をお受けしているので、道義から言っても死を捧げねばならない。だから私が関羽を叩くつもりである。今年、私が関羽を殺さなければ、関羽が私を殺すに違いない」

後に言葉通り自ら戦い、関羽の額に矢を命中させる。龐悳は常に白馬を用いたので、関羽軍から「白馬将軍」と称され恐れられたという。

次いで曹仁の命を受け、龐悳は樊の北10里に駐屯する。ちょうど10余日にわたって雨が降り続き、漢水(かんすい)が氾濫した。樊では平地に5、6丈も水が溜まり、龐悳も諸将とともに水を避けて堤に上がる。

そこへ関羽が船を出して攻撃をかけ、四方から堤に向かい矢を射させた。

龐悳は鎧(よろい)を着け、弓を手に反撃したが、無駄矢を射ることはなかった。将軍の董衡(とうこう)や部隊長の董超(とうちょう)らが降伏しようとすると、みな捕らえて斬り捨てた。

夜明けから力戦を続け、やがて日が傾き始める。いよいよ関羽の攻撃は激しく、矢が尽きると白兵戦へ移行した。

龐悳は督将(とくしょう)の成何(せいか)に言った。

「良将は死を恐れ、いい加減に生き延びようとせず、烈士は節義を失ってまで生を求めないと聞いている。今日こそ私が死ぬ日なのだ!」

ますます龐悳の意気は盛んだったが、水勢が増すと軍吏や兵はみな降伏してしまう。

龐悳は配下の部将ひとりと五伯(ごはく。班長)ふたりとともに、弓に矢をつがえ、小舟に乗って曹仁の軍営へ帰ろうとする。しかし小舟が転覆し、龐悳は弓矢を失った。

ただひとり舟底を抱いて水中にいたところ、ついに龐悳は捕らえられる。そして関羽の前に引き据えられてもひざまずかず、あくまで降伏を拒んで処刑された。

曹操は話を聞いて涙を流し、龐悳の息子ふたりを列侯(れっこう)に封ずる。

220年、曹丕(そうひ)が魏王(ぎおう)を継ぐと、龐悳の墓に使者を遣わし壮侯の諡号(しごう)を追贈する。

さらに息子の龐会ら4人を関内侯(かんだいこう)に封じ、それぞれの封邑を100戸とした。

管理人「かぶらがわ」より

馬騰と馬超を経て張魯、そして曹操と。各地の群雄のもとを渡り歩いた龐悳ですが、特に曹操への忠義の尽くし方は激烈でした。よほど恩を感じていたのでしょうね。

関羽に降ったことで、それまでの評価が一変してしまったのが于禁(うきん)なら、龐悳は降らなかったことで、その名を歴史に留めたと言えましょう。

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