張楊(ちょうよう) ※あざなは雅叔(がしゅく)

【姓名】 張楊(ちょうよう) 【あざな】 雅叔(がしゅく)

【原籍】 雲中郡(うんちゅうぐん)

【生没】 ?~198もしくは199年(?歳)

【吉川】 第028話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張楊伝』あり。

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空腹時の食糧は金銀財宝に勝る

父母ともに不詳。

張楊は武勇を見込まれて幷州(へいしゅう)で採用され、武猛従事(ぶもうじゅうじ)となった。

霊帝(れいてい。在位168~189年)の末期に天下が混乱する。そのため188年8月、霊帝は、寵愛していた小黄門(しょうこうもん)の蹇碩(けんせき。蹇磧)を(西園〈せいえん〉)上軍校尉(じょうぐんこうい)に任じた。

このとき天下の豪傑が召し寄せられ、曹操(そうそう)が典軍校尉(てんぐんこうい)に、袁紹(えんしょう)が中軍校尉(ちゅうぐんこうい)に、それぞれ任ぜられ、西園八校尉のひとりとして蹇碩に従うことになった。

張楊は幷州刺史(へいしゅうしし)の丁原(ていげん)の命を受け、軍勢をひきいて蹇碩のもとへ駆けつける。そして仮司馬(かしば)に任ぜられた。

翌189年4月に霊帝が崩御(ほうぎょ)すると、蹇碩は大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)に殺害された。張楊は、何進の命により幷州へ帰還。1千余りの兵を募ると、そのまま上党(じょうとう)に留まって山賊を討伐した。

同年8月、何進は宦官(かんがん)を誅滅しようとして敗れ、上洛した董卓(とうたく)が乱を起こした。丁原は執金吾(しつきんご)として洛陽(らくよう)にいたが、董卓の誘いに乗った呂布(りょふ)に殺害された。

そこで張楊は配下の軍勢をひきい、壺関(こかん)にいた上党太守(じょうとうたいしゅ)を攻撃した。しかし壺関を攻め落とすことができず、諸県を荒らし回っているうちに、配下の兵士が数千に増えた。

翌190年1月、山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)で反董卓連合軍が決起。

その盟主となった袁紹が河内(かだい)まで来たとき、張楊は彼と合流し、さらに匈奴(きょうど)の単于(ぜんう。王)の於夫羅(おふら)とともに、漳水(しょうすい)に駐屯した。

於夫羅は反逆を企てたが、袁紹と張楊は計画に同調しなかった。張楊が於夫羅に捕らえられて連れ去られると、袁紹は部将の麴義(きくぎ)に追撃を命じ、鄴(ぎょう)の南で於夫羅を討ち破った。

於夫羅は張楊を捕らえたまま黎陽(れいよう)へ移り、度遼将軍(どりょうしょうぐん)の耿祉(こうし)の軍勢を撃破して勢いを盛り返した。

張楊は董卓の意向により、建義将軍(けんぎしょうぐん)・河内太守に任ぜられた。

192年4月、司徒(しと)の王允(おういん)と尚書僕射(しょうしょぼくや)の士孫瑞(しそんずい)が、呂布と共謀して董卓を誅殺。

195年7月、献帝(けんてい)が洛陽への還幸を決める。

同年12月、献帝が河東郡(かとうぐん)へ入ると、張楊は軍勢をひきいて安邑県(あんゆうけん)まで駆けつけた。こうして安国将軍(あんこくしょうぐん)に任ぜられ、晋陽侯(しんようこう)に封ぜられた。

張楊は、献帝を護衛して洛陽へ帰ろうとしたものの、諸将が反対。このため任地である、河内郡の野王県(やおうけん)へ引き揚げることにした。

翌196年7月、献帝は、楊奉(ようほう)・董承(とうしょう)・韓暹(かんせん)らとともに洛陽へ戻ったが、食糧が欠乏していた。

張楊は食糧を用意して献帝を道中で出迎え、ともに洛陽へ入る。張楊は献帝の命を受けて宮室の修理にあたり、その宮殿は揚安殿(ようあんでん。楊安殿)と名付けられた。

同年8月、献帝が揚安殿に移り住んだ。

張楊は諸将にこう告げて、野王へ帰る。

「私は都のことに専念するより、外難を防ぐことに努めたい」

一連の功績が評価され、張楊は一躍、大司馬(だいしば)に昇進した。

張楊は以前から呂布と親しかった。198年、その呂布が下邳(かひ)で曹操に包囲された。張楊は救援したいと思ったものの、野王と下邳は離れすぎていて、駆けつけることができない。そこで野王の東まで兵を出し、遠く呂布へ声援を送るにとどめた。

翌199年2月、部将の楊醜(ようしゅう)が曹操に寝返り、張楊を殺害。この後、同じく張楊配下の部将の眭固(すいこ)が楊醜を殺害。眭固は軍勢をひきいて、北方の袁紹に合流しようとした。

曹操は史渙(しかん)に迎撃を命じ、犬城(けんじょう)で眭固を斬殺。もともと張楊がひきいていた軍勢は、ことごとく曹操の手中に収められることになった。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『英雄記(えいゆうき)』によると、張楊は慈愛深く温和な性格で、悪人に対しても、威圧したり刑罰を加えることができなかったそうです。

奴僕の謀反の企てが発覚したときでさえ、奴僕に向かって涙を流し、すぐに不問に付したのだとか。ただ、謀反の企てまで罪に問わないというのはどうなのか? これには疑問を感じます。

張楊と呂布とは古くからの友人だったようです。でも、呂布は仕えていた丁原を殺害していますよね。丁原には張楊も仕えていたのですが、そのあたりの呂布への割り切りは何だったのでしょうか?

また、196年8月の大司馬任命は唐突な印象でした。まぁ、このとき献帝は韓暹を大将軍に、楊奉を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に、それぞれ任じてもいますけど……。

范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)によると、「このころ宮室はみな焼け落ちたままで、百官はいばらを切り払い、垣根に寄り添って雨露をしのいでいた。州郡はそれぞれ強兵を擁しており、年貢を運ぶ車も来なかった。群僚は飢餓に苦しみ、尚書郎(しょうしょろう)以下の者は自らリョ(禾+呂。野生の稲)を採取したが、ある者は牆壁(しょうへき)の間で餓死し、ある者は兵士に殺されるというありさまだった」ということですので――。

当時の危機的な状況の中、食糧を運んできたり、宮殿を修理してくれたりといった張楊の働きは、相当インパクトが大きかったのでしょう。

張楊の死については、同じく「献帝紀」に198年11月のこととあり、翌199年2月の記事に見えている『三国志』(魏書・武帝紀〈ぶていぎ〉)とは時期的なズレがあります。

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