曹真(そうしん)※あざなは子丹(したん)、魏(ぎ)の邵陵元侯(しょうりょうげんこう)?

【姓名】 曹真(そうしん) 【あざな】 子丹(したん)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~231年(?歳)

【吉川】 第255話で初登場。
【演義】 第084回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹真伝』あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

魏(ぎ)の曹操(そうそう)の族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)、邵陵元侯(しょうりょうげんこう)?

父は曹邵(そうしょう。秦伯南〈しんはくなん〉)だが、母は不詳。曹彬(そうひん)は弟。

息子の曹爽(そうそう)は跡継ぎ。曹羲(そうぎ)・曹訓(そうくん)・曹則(そうそく)・曹彦(そうげん)・曹皚(そうがい)も同じく息子。

曹操が挙兵したばかりのころ、曹邵は徒党を募ったことで州郡の手の者に殺害された。

曹操は幼くして孤児になった曹真を哀れみ、引き取って自分の息子たちと一緒に養育した。そのため曹真は曹丕(そうひ)と起居をともにすることになった。

あるとき曹真は狩猟中に虎に追いかけられ、弓で仕留めたことがあった。このことから曹操に勇猛さを評価され、虎豹騎(こひょうき)をひきいることになった。

その後、曹操のもとで各地を転戦し、偏将軍(へんしょうぐん)、中堅将軍(ちゅうけんしょうぐん)、中領軍(ちゅうりょうぐん)などを歴任。

曹丕の時代(220~226年)に鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)、上軍大将軍(じょうぐんだいしょうぐん)、中軍大将軍(ちゅうぐんだいしょうぐん)などを務め、曹叡(そうえい)の時代(226~239年)には大将軍から大司馬(だいしば)に昇った。

曹真は231年3月に死去して元侯と諡(おくりな)され、息子の曹爽が跡を継いだ。

主な経歴

生年は不詳。

-?年-
この年、虎豹騎の隊長に任ぜられた。

-?年-
この年、霊丘(れいきゅう)の賊を討伐し、霊寿亭侯(れいじゅていこう)に封ぜられた。

-218年-
この年、偏将軍として軍勢をひきい、下弁(かべん)で劉備(りゅうび)の別動隊を撃破し、中堅将軍に任ぜられた。

9月、曹操に付き従って長安(ちょうあん)へ行き、中領軍を務めた。

-219年-
この年、夏侯淵(かこうえん)が陽平(ようへい)で劉備配下の黄忠(こうちゅう)と戦って戦死する。曹真は曹操の命を受け、征蜀護軍(せいしょくごぐん)として徐晃(じょこう)らを指揮し、陽平で劉備配下の高詳(こうしょう)を撃破した。

3月、曹操自ら漢中(かんちゅう)まで進み、諸軍を救い出す。曹真は武都(ぶと)で曹洪(そうこう)を出迎えた後で引き返し、陳倉(ちんそう)に駐屯した。

-220年-
1月、曹操が崩御(ほうぎょ)する。

2月、曹丕が魏王(ぎおう)を継ぐと、曹真は鎮西将軍・仮節(かせつ)・都督雍涼諸軍事(ととくようりょうしょぐんじ)に任ぜられ、東郷侯(とうきょうこう)に爵位が進む。

この年、張進(ちょうしん)らが酒泉(しゅせん)で謀反を起こす。曹真は費曜(ひよう)を討伐に遣わし、張進らを斬らせた。

-222年-
この年、都(洛陽〈らくよう〉)へ帰還した際、上軍大将軍・都督中外諸軍事(ととくちゅうがいしょぐんじ)に任ぜられ、節(せつ。権限を示すしるし)と鉞(えつ。まさかり。軍権の象徴)を貸し与えられた。

この年、夏侯尚(かこうしょう)らと孫権(そんけん)討伐に赴き、牛渚(ぎゅうしょ)の敵営を撃破。中軍大将軍に転じて給事中(きゅうじちゅう)を加官された。

-226年-
5月、病床の曹丕から陳羣(ちんぐん)や司馬懿(しばい)らとともに遺詔を託され、政治を補佐することになる。

この年、曹叡が帝位を継ぐと邵陵侯(しょうりょうこう)に爵位が進み、12月には大将軍に任ぜられた。

-228年-
この年、蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)が祁山(きざん)を包囲すると、南安(なんあん)・天水(てんすい)・安定(あんてい)の3郡が魏に背き、蜀に呼応した。

曹真は曹叡の命を受け、諸軍をひきいて郿(び)に陣を布(し)き、張郃(ちょうこう)を遣わして蜀の馬謖(ばしょく)を攻めさせ、これを大破した。

安定の楊条(ようじょう)らが官民を連れ去り、月支城(げっしじょう)に立て籠もると、曹真自ら軍勢を進めて包囲する。楊条らはすぐに降伏し、背いた3郡も平定された。

曹真は、諸葛亮が次回の出兵では陳倉を通ると読み、郝昭(かくしょう)と王生(おうせい)を陳倉へ遣わし、城壁を修築するよう命じた。

12月(翌年〈229年〉の春とも)、蜀の諸葛亮に陳倉が包囲されたものの、すでに備えが整っていたため撃退できた。この功績が評価され、曹真は封邑(ほうゆう)の加増を受けて2,900戸となった。

-230年-
2月、洛陽に参内して大司馬に任ぜられ、「剣を帯び、履(くつ)をはいたまま上殿し、宮中でも小走りしなくてよい」という特別待遇を賜る。

7月、曹叡に複数の街道から一斉に蜀討伐に向かう許しを得る。曹真が出発する際には曹叡自ら見送りに立った。

8月、曹真は長安を発ち、子午道(しごどう)を通って南下する。一方で司馬懿は漢水(かんすい)をさかのぼり、南鄭(なんてい)で合流する手はずを整えた。さらに斜谷道(やこくどう)や武威(ぶい)方面から別の部隊も進攻した。

ところが漢中一帯で長雨に遭い、30日以上も降り続く。桟道には通行できなくなるものも出てきた。

9月、曹叡の詔を受け、全軍を引き揚げる。

この年(翌231年に入ってからかも?)、曹真は病気のため洛陽に帰還した。

-231年-
3月に死去し、元侯と諡された。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると、「曹真はもとの姓を秦氏(しんし)と言い、曹氏に養育された」ということです。

そのいきさつとして、以下のような「ある人の説」を挙げていました。

「彼の父の伯南(秦伯南)は昔から曹操と親しかった。興平(こうへい)年間(194~195年)の末、袁術(えんじゅつ)の配下が曹操を攻めたとき、敵に追われた曹操は秦氏のところへ逃げ込んだ」

「伯南は曹操を迎え入れ、敵が曹操の居場所を尋ねた際、『私がそうだ』と答えて殺害された。そのため曹操は伯南の手柄だと感じ、姓を(秦氏から曹氏に)変えさせた」

この件については王沈(おうしん)の『魏書』も引かれており――。

「初平(しょへい)年間(190~193年)に曹操が義兵を起こすと、曹邵(秦邵。秦伯南のこと)は仲間を募り、曹操に付き従って活躍した」

「このころ豫州刺史(よしゅうしし)の黄琬(こうえん)が曹操を殺害しようとした。曹操は難を逃れたものの、曹邵は殺害されてしまった」とありました。

本伝の記事とも比べると、それぞれ内容は微妙に違いますが、「曹操が曹真の父に世話(しかも自分の命に関わること)になったことがあり、その恩に報いるために曹真を引き取って養育した」という点は確度が高そうです。

『三国志』(魏書・文帝紀〈ぶんていぎ〉)の裴松之注に引く曹丕の『典論(てんろん)』に、「205年の晩春、曹丕が曹真と鄴(ぎょう)の西へ狩猟に出かけた」という記事があります。

かつて起居をともにしたくらいですから、曹真は曹丕と仲が良かったようですね。

また「曹叡が帝位を継いだ後、曹真の爵位が邵陵侯に進んだ」とあることについて、裴松之は、曹真の父の名が邵であることに着目。「書写の誤りでなければ、息子の曹真が邵陵侯に封ぜられるわけがないこと」を指摘しています。

そのほかにも、本伝には曹真の人柄を示す逸話が載せられており――。

「曹真は若いころから、一族の曹遵(そうじゅん)、同郷の朱讚(しゅさん)とともに曹操に仕えていた。曹遵と朱讚が早く亡くなったため、曹真は『私の封邑を分けて、曹遵と朱讚の息子にお与えください』と曹叡に願い出て許された」のだとか。

加えて「曹真は遠征先でいつも将兵と苦労をともにし、恩賞が足らないときは自分の財産から分け与えたので、みな心から彼の役に立ちたいと願った」のだということです。

『三国志』(魏書・斉王紀〈せいおうぎ〉)によると、243年7月に曹芳(そうほう)が詔(みことのり)を下して、曹操の霊廟(れいびょう)前の広場に祭らせた21人の筆頭に曹真の名があります。

『三国志演義』では無能な将軍のように描かれていましたが、正史『三国志』の描かれ方とはだいぶ違いますね……。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました