朱霊(しゅれい)

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【姓名】 朱霊(しゅれい) 【あざな】 文博(ぶんはく)

【原籍】 清河郡(せいかぐん)ユ県(ゆけん。兪+阝)?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第084話で初登場。
【演義】 第021回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・徐晃伝(じょこうでん)』に付された「朱霊伝」あり。

曹操(そうそう)以来、魏に40年近く仕えるも、詳しい事績は語られず。高唐威侯(こうとうのいこう)?

父母ともに不詳。母や弟を始めとする家族は、ユ県で公孫瓚(こうそんさん)の手に落ちた際にみな死んだともいう。

朱霊は初め袁紹(えんしょう)の下で「将軍(しょうぐん)」を務めていた。

193年、曹操が徐州(じょしゅう)の陶謙(とうけん)を討伐した際、袁紹の命を受け、3つの軍営の兵を指揮して曹操を助ける。戦いが終わると、袁紹の部将らはそれぞれ帰還したが、朱霊はこう言ってとどまった。

「これまで私は数多くの人物を見てきたが、曹公(曹操)のような御方はおられなかった。これこそ真の明君である。いま出会ったからには、もう私はどこにも行かないぞ」

配下の士卒も朱霊を慕っており、みな彼とともにとどまった。

199年、各地で敗れた袁術(えんじゅつ)が北方へ逃れようとしたとき、朱霊は曹操の命を受け、劉備(りゅうび)や路招(ろしょう)とともに下邳(かひ)で行く手を遮った。

袁術は徐州へたどり着く前に亡くなったが、朱霊らが帰還した後、劉備は徐州刺史(じょしゅうしし)の車冑(しゃちゅう)を殺害して背く。

204年、曹操が冀州(きしゅう)を平定すると、朱霊は新たに編入された兵5千と騎兵1千をひきいて許南(きょなん)を守る。陽翟(ようたく)に着くと、中郎将(ちゅうろうしょう)の程昂(ていこう)らが反乱を起こす。朱霊は即座に斬り捨てて事態を収めた。

208年、曹操が荊州(けいしゅう)討伐に乗り出すと、朱霊は趙儼(ちょうげん)の統括下の7軍として付き従う。

7軍の顔ぶれは、于禁(うきん)・張遼(ちょうりょう)・張郃(ちょうこう)・朱霊・李典(りてん)・路招・馮楷(ふうかい)。

211年、韓遂(かんすい)と馬超(ばちょう)らが関右(かんゆう。関中〈かんちゅう〉)で反乱を起こす。この際、朱霊は徐晃とともに、蒲阪津(ほはんしん)から黄河(こうが)を渡り、先に軍営を設置して敵の背後を断とうとする。

歩騎4千をひきいて渡河したが、塹壕(ざんごう)や木柵が完成しないうち、賊の梁興(りょうこう)ひきいる歩騎5千に夜襲された。これを撃破したため、曹操は潼関(とうかん)から軍勢をひきいて渡河に成功。こうして馬超らを討ち破ることができた。

さらに朱霊は夏侯淵(かこうえん)や徐晃らとともに、隃麋(ゆび)や汧(けん)にいる種々の氐族(ていぞく)を平定。その後、安定(あんてい)で曹操と合流し楊秋(ようしゅう)を降した。

翌212年、朱霊は夏侯淵や路招らとともに長安(ちょうあん)に駐屯。

215年、曹操の張魯(ちょうろ)討伐の際、朱霊は張郃らとともに武都(ぶと)からの進入路をふさいだ氐族を撃破した。のち「横海将軍(おうかいしょうぐん)」に昇進。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、朱霊は「ユ侯(兪+阝)」に封ぜられ封邑(ほうゆう)も加増される。

さらに曹丕が詔(みことのり)を下して多年の功績をたたえたうえ、朱霊の希望を尋ねたところ、彼は高唐に封じてほしいと願い出た。そこで改めて「高唐侯」に封ぜられることになる。

228年、曹休(そうきゅう)が石亭(せきてい)で呉軍(ごぐん)に大敗した際、朱霊は賈逵(かき)らとともに駆けつけて危急を救う。

のち朱霊は「後将軍(こうしょうぐん)」まで昇って死去(時期は不明)し、「威侯」と諡(おくりな)された。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には記事が少なく、他人の紀伝や裴松之注(はいしょうしちゅう)から事績を拾ってみました。ですが、朱霊がどのように評価されていたのかイマイチはっきりしません。

『三国志』(魏書・于禁伝)には以下のような記事もあります。

「曹操はいつも朱霊を憎んでおり、その軍営を取り上げたいと思っていた。于禁には威厳があり、みなに憚(はばか)られていたことから、曹操は彼に数十騎を付け命令書を届けさせた」

「于禁は真っすぐ軍営に向かい、命令を伝えて兵を取り上げたが、朱霊や部下たちはあえて行動を起こそうとはしなかった。さらに曹操は朱霊を于禁の一部将としたが、みな恐れて服従した」

これがいつのことなのかわからないうえ、その後の朱霊の事績が曹叡(そうえい)の時代まで及んでいるところを見ても、この記事の意味合いはつかみにくいと思います。

曹操に憎まれた理由としては、199年に劉備の独立を招いたことや、204年に程昂が反乱を起こしたことが思い浮かびますけど……。もちろん断定はできません。

このほかにもわからないことが残っており、本伝には「高唐侯」ではなく「高唐亭侯」に封ぜられたとありました。

王沈(おうしん)の『魏書』の記事を採り「高唐侯」としておきましたが、どちらが間違っているのでしょうか? たったひと文字の違いですけど、「侯(県侯)」と「亭侯」じゃ大違いですからね。

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