266年(晋の泰始2年・〈呉の甘露2年〉→宝鼎元年)の主な出来事

-266年- 丙戌(へいじゅつ)
【晋】 泰始(たいし)2年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 (甘露〈かんろ〉2年) → 宝鼎(ほうてい)元年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
呉(ご)の孫晧が、大鴻臚(だいこうろ)の張儼(ちょうげん)と五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)の丁忠(ていちゅう)を晋(しん)へ遣わし、司馬昭(しばしょう)の死を弔問させる。この晋からの帰路、張儼が病死した。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)

『呉録(ごろく)』…張儼について。

【01月】
晋の司馬炎が、楊氏(ようし)を皇后に立てる。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

ここで立てられた楊氏(楊元后〈ようげんこう〉)は泰始10(274)年に崩御(ほうぎょ)した。その後、咸寧(かんねい)2(276)年に新たに立てられた楊氏とは別人。一応補足しておく。

【08月】「呉の改元」
呉の孫晧のもとに、「各地で大きな鼎(かなえ)が発見された」との報告が届く。そこで孫晧は、「甘露」を「宝鼎」と改元したうえ、大赦を行った。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【08月】
呉の孫晧が、陸凱(りくかい)を左丞相(さじょうしょう)に、常侍(じょうじ)の万彧(ばんいく)を右丞相(ゆうじょうしょう)に、それぞれ任ずる。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【10月】
呉の永安(えいあん)で、山賊の施但(したん)らが数千人の徒党を集める。

施但らは、孫晧の異母弟である永安侯の孫謙(そんけん)を強迫し、烏程(うてい)まで同行させた。そして、孫和(そんか)の陵に副葬されていた楽器や曲蓋(柄が曲がった貴人の儀杖用〈ぎじょうよう〉の傘)を奪い取ったりした。

施但らが建業(けんぎょう)まで来たとき、その徒党は1万余人にもなっていた。これを呉の丁固(ていこ)と諸葛靚(しょかつせい)が迎え撃ち、牛屯(ぎゅうとん)で激戦になった。施但らは敗走し、取り残された孫謙は保護されたものの、自殺してしまった。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『呉録』…永安は、今(当時)の武康県(ぶこうけん)である。

『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…望気者(普通の人には見えない、王者の気などを見ることができる人物)が孫晧に言ったことと、武昌に遷都したことについての話。

【10月】
呉の孫晧が、会稽郡(かいけいぐん)を分割して東陽郡(とうようぐん)を、呉郡と丹楊郡(たんようぐん)を分割して呉興郡(ごこうぐん)を、それぞれ設置する。また、零陵郡(れいりょうぐん)の北部を邵陵郡(しょうりょうぐん)とした。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

裴松之注(はいしょうしちゅう)…孫晧の詔(みことのり)。呉興郡を設置する意義について。

【11月】
晋の司馬炎が、円丘(えんきゅう)と方丘(ほうきゅう)の祀(まつり)を併せる。
『正史 三国志8』の年表

【11月】「倭国(わこく)の使者」
この年、倭の女王が晋に使者を遣わし、献上品を捧げた。
『日本書紀(にほんしょき)』(神功皇后紀〈じんぐうこうごうぎ〉)の注

この注は『晋起居注(しんききょちゅう)』から引かれており、李軌(りき)の『晋泰始起居注』と同じものだと思われる。また、このときの倭の女王は卑弥呼(ひみこ)ではなく、壱与(いよ)であるとの見方が主流になっている。

【12月】「呉の遷都」
呉の孫晧が、武昌(ぶしょう)から建業へ遷都する。衛将軍(えいしょうぐん)の滕牧(とうぼく)が武昌に留まり、旧都の守備にあたった。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【12月】
呉の陸凱が、大司馬(だいしば)の丁奉(ていほう)や御史大夫(ぎょしたいふ)の丁固と謀り、孫晧の廃位を企てる。しかし、左将軍(さしょうぐん)の留平(りゅうへい)の協力が得られなかったため、この計画は実行されずに終わった。
『三国志』(呉書・陸凱伝)

『呉録』…この計画が立ち消えに至った話。

【?月】
この年、王敦(おうとん)が生まれた(~324年)。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(266年)に亡くなったとされる人物」
王蕃(おうはん)孫謙(そんけん)A ※孫和(そんか)の息子

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