267年(晋の泰始3年・呉の宝鼎2年)の主な出来事

-267年- 丁亥(ていがい)
【晋】 泰始(たいし)3年 ※武帝(司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 宝鼎(ほうてい)2年 ※帰命侯(孫晧〈そんこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
癸丑(きちゅう)の日(?日)
2頭の白龍が、晋の弘農(こうのう)と澠池(べんち)に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【01月】
丁卯(ていぼう)の日(?日)
晋の司馬炎が、皇子の司馬衷(しばちゅう)を皇太子に立てる。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
戊寅(ぼいん)の日(6日)
晋の司馬炎が、初めて二千石(の官にある者)に3年喪の完遂を許す。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
丁未(ていび)の日(?日)
晋で昼間に暗くなる。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
丁未の日(?日)
晋の司馬炎が、武衛将軍の官を廃止する。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
丁未の日(?日)
晋の司馬炎が、李憙(りき)を太子太傅(たいしたいふ)に任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
丁未の日(?日)
晋の太山(泰山)で石が崩れる。
『晋書』(武帝紀)

【春】
呉の孫晧が大赦を行う。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【春】
呉の右丞相の万彧(ばんいく)が長江をさかのぼり、巴丘の守りに就く。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【04月】
戊午(ぼご)の日(16日)
晋の張掖太守の焦勝(しょうしょう)が上言し、「氐池県の大柳谷口にある黒い石に、白い文字が浮かび上がりました。大晋にとって誠に瑞祥ですから、これを写し取り献上いたします」と述べる。

司馬炎は詔を下し、制幣(せいへい。1丈8尺の布)をもって太廟に(浮かび上がった文字を)告げ、天府に収蔵させた。
『晋書』(武帝紀)

【06月】
呉の孫晧が顕明宮(昭明宮)を造営する。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『太康三年地記(たいこうさんねんちき)』…孫権(そんけん)が造営した太初宮と、このとき孫晧が造営した昭明宮の話。「昭明宮は、晋の司馬昭(しばしょう)の諱(いみな)を避けて顕明宮と呼ばれた」とある。

『呉歴』…顕明宮は、太初宮の東に位置する。

『江表伝』…孫晧が、顕明宮を造営した際の話。

【07月】
呉の孫晧が、守大匠(将作大匠代行)の薛珝(せつく)に命じ、父の孫和(そんか)の霊廟の正殿と奥殿を建立させる。そして、この廟を清廟と名付けた。
『三国志』(呉書・孫和伝)

ここは原文にも守大匠とだけあった。将作大匠代行と同義だと思うが、大匠だけでも通じるのか? 呉の特有の呼び名とか?

【08月】
晋の司馬炎が、都護将軍の官を廃止し、その五署の管轄を光禄勲に移す。
『晋書』(武帝紀)

【09月】
甲申(こうしん)の日(14日)
晋の司馬炎が詔を下し、官吏の俸禄を増やすことについて議論させる。
『晋書』(武帝紀)

【09月】
甲申の日(14日)
晋の司馬炎が、それぞれ差をつけ、王公以下に帛(きぬ)を下賜する。
『晋書』(武帝紀)

【09月】
甲申の日(14日)
晋の司馬炎が、太尉の何曾(かそう)を太保に、義陽王の司馬望(しばぼう)を太尉に、司空の荀顗(じゅんぎ)を司徒に、それぞれ任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【10月】
晋の司馬炎が、士卒の父母が亡くなったとき、国境地帯に赴任していない者については、みな葬儀に駆けつけることを許す。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
晋の司馬炎が、宗聖侯の孔震(こうしん)を奉聖亭侯に移封する。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
晋の山陽公の劉康(りゅうこう)が来朝する。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
晋の司馬炎が、星気(天文や気候から占う術)と讖緯(しんい。予言書の類い)の学を禁ずる。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
呉の孫晧が顕明宮(昭明宮)へ遷(うつ)り、その宮殿で起居し始める。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【12月】
呉の孫晧が、守丞相の孟仁(もうじん。孟宗〈もうそう〉)と太常の姚信(ようしん)らを明陵(孫和の陵)へ遣わす。

このとき官吏や近衛の歩騎2千人をそろえ、天子のための乗り物を用意させたうえ、東方の明陵から孫和の魂を迎え、都(建業)に建立した清廟へ遷すことにした。
『三国志』(呉書・孫和伝)

【?月】
この年、呉の孫晧が、豫章・廬陵・長沙の3郡からそれぞれ一部を分割し、安成郡を設置した。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【?月】
この年、王導(おうどう)が生まれた(~330年)。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

特記事項

この年は特になし。

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