199年(漢の建安4年)の主な出来事

-199年- 己卯(きぼう)
【漢】 建安(けんあん)4年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【02月】
曹操(そうそう)が昌邑(しょうゆう)まで帰る。張楊(ちょうよう)配下の楊醜(ようしゅう)が張楊を殺害、晆固(すいこ)がまた楊醜を殺害し、その軍勢をもって袁紹(えんしょう)の配下に入り、射犬(しゃけん)に駐屯した。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

張楊の死について、『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)では昨年(198年)11月の記事に見えた。

【?月】「公孫瓚(こうそんさん)の死」
袁紹が全軍を挙げ、易京(えきけい)の公孫瓚を包囲する。公孫瓚は敗北を免れないと悟り、妻子を殺害したのち自殺した。
『三国志』(魏書・公孫瓚伝)

⇒03月
袁紹が易京の公孫瓚を攻め、これを生け捕る。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「公孫瓚はたびたび(袁紹に)敗れたため、易河(えきが)に面して(大きな丘である)京を築いて守りを固めた。それゆえ『易京』と呼んだ。その城壁は三重であり、周囲は6里あった。唐(とう)の内城の中に土京があり、幽州(ゆうしゅう)帰義県(きぎけん)の南にある」という。

また「『爾雅(じが)』(釈丘〈せききゅう〉)に、『特別に高大なものは、これを京という。人力によって造られていないものは、これを丘という』とある」ともいう。

公孫瓚について、自殺と生け捕りではだいぶ違うと思うが……。

【?月】
袁紹が、烏丸(うがん)の蹋頓(とうとつ)らに単于(ぜんう)の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を与える。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【03月】
献帝が、衛将軍(えいしょうぐん)の董承(とうしょう)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任ずる。
『後漢書』(献帝紀)

【04月】
曹操が軍を進めて黄河(こうが)に臨み、曹仁(そうじん)と史渙(しかん)に黄河を渡らせ、晆固を攻めさせる。

晆固は、張楊のもと長史(ちょうし)の薛洪(せつこう)と河内太守(かだいたいしゅ)の繆尚(びゅうしょう)を留めて守らせる一方、自身は兵をひきいて北方に行き、袁紹を迎えて救援を要請しようとした。

しかし晆固は、犬城(けんじょう)で曹仁と史渙に遭遇し、散々に敗れて斬られた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
曹操も黄河を渡り、射犬を包囲する。薛洪と繆尚は軍勢をひきいて降伏し、曹操から列侯(れっこう)に封ぜられた。

曹操は引き揚げて、敖倉(ごうそう)に駐留。魏种(ぎちゅう)を河内太守に取り立て、河北(かほく)の軍政を委ねた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】「袁術(えんじゅつ)の死」
袁術が病死。彼は陳(ちん)での敗北後、次第に行き詰まったため、袁紹の息子の袁譚(えんたん)が、青州(せいしゅう)から使者を遣わして迎えに行かせた。

袁術は、下邳(かひ)を通って北方に行くつもりだったが、曹操は、劉備(りゅうび)と朱霊(しゅれい)を遣わしてさえぎらせた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒06月
袁術が死去する。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
劉備が、下邳で徐州刺史(じょしゅうしし)の車冑(しゃちゅう)を殺害し、その地で旗揚げして沛(はい)に駐屯する。

曹操は、劉岱(りゅうたい)と王忠(おうちゅう)を遣わして劉備を攻めさせたものの、勝つことができなかった。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
劉備が、曹操から袁術討伐を命ぜられたことを機に、徐州に拠って独立する。劉備は小沛(しょうはい)を守り、配下の関羽(かんう)に下邳を守らせた。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表

『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄著 潮書房光人社)の『三国志』年表では、この記事に「5月?」という時期が追加されていた。この記事の後、6月に袁術が病死するという流れになっている。

【08月】
曹操が黎陽(れいよう)に軍を進め、臧霸(そうは)らを青州に侵攻させて、斉(せい)・北海(ほっかい)・東安(とうあん)を討ち破り、于禁(うきん)を黄河の河岸に駐屯させる。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【09月】
曹操が許(きょ)に帰還する。この際、兵を分けて官渡(かんと)を守らせた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【11月】
張繡(ちょうしゅう)が、軍勢をひきいて曹操に降伏し、列侯に封ぜられる。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
廬江太守(ろこうたいしゅ)の劉勲(りゅうくん)が、軍勢をひきいて曹操に降伏し、列侯に封ぜられる。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【12月】
曹操が官渡に陣取る。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
袁紹が、兵を進めて許を襲撃しようとし、これに対抗した曹操が官渡を固める。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【?月】
先に曹操のもとを離れ、小沛で独立した劉備が袁紹と結ぶ。
『正史 三国志8』の年表

【?月】
この年、孫権(そんけん)が孫策(そんさく)に付き従い、廬江太守の劉勲を討伐する。孫策は劉勲を討ち破ると、さらに軍を進め、沙羡(さい)で劉表(りゅうひょう)配下の黄祖(こうそ)を討ち破った。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると、「(廬江郡の尋陽県〈じんようけん〉には)置馬亭(ちばてい)がある。ここは劉勲の軍勢が散じた場所である」という。

⇒12月
孫策が、劉表配下の黄祖を討ち破る。
『正史 三国志8』の年表

この年の『三国志』(魏書・武帝紀)にある、「劉勲が曹操に降伏して列侯に封ぜられた」という記事との兼ね合いがわかりにくい。劉勲は孫策に敗れた後、残った軍勢をひきいて曹操に降ったということらしい。

地名の沙羡について、沙羡と沙羨(させん)は各所で混用が見られる。このサイトでは『後漢書』(郡国志)に従い、沙羡としておく。

【?月】
この年、献帝が、初めて尚書左僕射(しょうしょさぼくや)と尚書右僕射(しょうしょゆうぼくや)の官を設置した。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
この年、武陵郡(ぶりょうぐん)で亡くなった女性が、14日後に生き返るという事件が起きた。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「『続漢志(しょくかんし)』(五行志〈ごぎょうし〉)に、『李娥(りが)という女性が60歳余りで亡くなり、城外に埋められていた。通りがかりの者が、墓中から声がするのを聞き、家人に知らせて掘り出させた』とある」という。

【?月】
この年、孫氏(孫策)が、(会稽郡〈かいけいぐん〉の太末県〈たいばつけん〉を)分割して豊安県(ほうあんけん)を設置した。
『後漢書』(郡国志)の劉昭注

特記事項

「この年(199年)に亡くなったとされる人物」
袁術(えんじゅつ)公孫瓚(こうそんさん)張楊(ちょうよう)?

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