182年(漢の光和5年)の主な出来事

-182年- 壬戌(じんじゅつ)
【漢】 光和(こうわ)5年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
辛未(しんび)の日(14日)
霊帝が大赦を行う。
『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)

【01月】
陳耽(ちんたん)が霊帝に上言し、宦官(かんがん)勢力に阿付する許戫(きょいく)らを非難する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

⇒01月
霊帝が、民に害を与えている刺史(しし)や太守(たいしゅ)の名を挙げるよう命ずる。しかし、大臣らは宦官から賄賂を受け、悪事を働く宦官の子弟や賓客を放置し、遠方の郡の清廉な者を糾弾した。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【02月】
疫病が流行する。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【03月】
霊帝が、司徒(しと)の陳耽(ちんたん)を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
日照りの被害が出る。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【04月】
霊帝が、太常(たいじょう)の袁隗(えんかい)を司徒に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
程包(ていほう)が、「板楯蛮(はんじゅんばん)の蜂起は、地方長官の横暴が原因である」と主張する。これを受けて、曹謙(そうけん)が巴郡太守(はぐんたいしゅ)に任ぜられた。
『正史 三国志8』の年表

【05月】
庚申(こうしん)の日(5日)
永楽宮(えいらくきゅう)の署で災害による被害が出る。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な災害の内容についての記述はなかったが、原文を見ると火災のようだ。

李賢注(りけんちゅう)によると「『続漢書(しょくかんじょ)』(五行志〈ごぎょうし〉)に、『徳陽前殿(とくようぜんでん)の西北、門内に入った永楽太后(えいらくたいこう)の宮署で災害があった』とある」という。

【07月】
彗星(すいせい)が太微(たいび。星垣〈せいえん〉。しし座の西端にある10星)に現れる。
『後漢書』(霊帝紀)

【07月】
巴郡の板楯蛮が、巴郡太守の曹謙に降伏する。
『後漢書』(霊帝紀)

【07月】
癸酉(きゆう)の日(19日)
霊帝が、縑(きぬ)を納めることで未決囚に罪を購わせる。
『後漢書』(霊帝紀)

【08月】
霊帝が、阿亭道(あていどう)に400尺(せき)の楼観を築く。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
霊帝が、太尉(たいい)の許戫を罷免し、太常の楊賜(ようし)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
霊帝が、上林苑(じょうりんえん)で狩猟を行い、函谷関(かんこくかん)を経て広成苑(こうせいえん)でも狩猟を行う。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
霊帝が洛陽(らくよう)に還幸し、太学(たいがく)に行幸する。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、経学者(けいがくしゃ)の何休(かきゅう)が死去した(129年~)。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(182年)に生まれたとされる人物」
朱然(しゅぜん。施然〈しぜん〉)甄氏(しんし)A ※曹丕(そうひ)の妻孫権(そんけん)劉基(りゅうき)B ※劉繇(りょうよう)の息子

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