李傕(りかく)

【姓名】 李傕(りかく) 【あざな】 ?

【原籍】 北地郡(ほくちぐん)

【生没】 ?~197もしくは198年(?歳)

【吉川】 第028話で初登場。
【演義】 第003回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・董卓伝(とうたくでん)』に付された「李傕伝」あり。

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旧主の董卓亡き後、朝政を壟断(ろうだん)したひとり

父母ともに不詳。

李傕は、董卓の娘婿である中郎将(ちゅうろうしょう)の牛輔(ぎゅうほ)の下で校尉(こうい)を務め、郭汜(かくし)や張済(ちょうせい)らとともに、陳留(ちんりゅう)や潁川(えいせん)の諸県の攻略にあたった。

192年4月、董卓が呂布(りょふ)らに殺害されると、陝(せん)にいた牛輔は李粛(りしゅく)の攻撃を受けた。牛輔は李粛を撃破し、李粛は弘農(こうのう)へ敗走したものの、呂布に処刑された。

その後、夜間に牛輔の軍営で反乱が起こり、逃亡者が出た。牛輔は金目の物を手に、かねて厚遇していた攴胡赤児(ほくこせきじ。攴胡の赤児)ら5、6人だけを連れて城外へ逃れ、北にある黄河(こうが)を渡ろうとした。

だがその途中、攴胡赤児らは牛輔が持ってきた金品に目がくらみ、牛輔の首を切って長安(ちょうあん)へ送った。李傕らが戻ったころには、すでに牛輔が殺害されており、配下の兵士は故郷へ帰ることを願った。

ところが長安から赦免状は届かず、涼州(りょうしゅう)の兵士はみな処刑されているとのうわさも流れ、不安と恐怖が広がった。

そこで李傕は賈詡(かく)の献策を容れ、軍勢をひきいて西の長安へ向かう。行く先々で兵士を駆り集めたため、長安に着くころには10万を超える軍勢に膨れ上がった。

同年5月、李傕は、董卓の旧臣だった樊稠(はんちゅう)・李蒙(りもう)・王方(おうほう)らと合流。長安城を包囲して10日で陥落させた。

城内で呂布の軍勢を撃破すると、6月には董卓の殺害に関わった者たちを処刑し、王允(おういん)の屍(しかばね)を市場にさらした。

同年9月、李傕は車騎将軍(しゃきしょうぐん)・池陽侯(ちようこう)となり、司隷校尉(しれいこうい)を兼任。献帝(けんてい)から節(せつ。権限を示すしるし)を授けられた。

195年2月、李傕らは主導権争いから仲間割れを起こし、樊稠を殺害。郭汜とも猜疑(さいぎ)し合うようになり、このあと対立と和解を繰り返すことになる。

同年5月、李傕は大司馬(だいしば)に昇進。

同年7月、献帝が長安を離れる。ほどなく李傕は、献帝の洛陽(らくよう)行きを認めたことを後悔し、郭汜とともに追撃。

同年冬、弘農郡の曹陽県(そうようけん)で献帝の一行に追いつく。

同年11月、李傕らは、楊奉(ようほう)および河東(かとう)のもと白波賊(はくはぞく)の頭目である韓暹(かんせん)・胡才(こさい)・李楽(りがく)らの軍勢を撃破。兵士を放って公卿(こうけい)百官を殺害させると、宮女を略奪して弘農へ乱入。

同年12月、献帝が、陝、大陽(たいよう)、安邑(あんゆう)の各地を転々とする。

翌196年、太僕(たいぼく)の韓融(かんゆう)が勅使として弘農に到着。李傕は献帝の和睦要請に応じ、略奪した宮女、公卿百官と乗輿(じょうよ。天子〈てんし〉の御車)などを返還。

同年7月、献帝が洛陽に還幸。

同年8月、曹操(そうそう)の意向に従い、献帝が許(きょ)への遷都を決定。

翌197年、曹操の命を受けた謁者僕射(えっしゃぼくや)の裴茂(はいぼう)が李傕の討伐に乗り出す。李傕は敗れて処刑され、その三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)も皆殺しにされた。

なお、郭汜は配下の部将の五習(ごしゅう)に襲撃され、郿(び)で死んだ。張済は飢えに苦しみ、南陽(なんよう)へ行って略奪を働いたが、穣(じょう)の住民に殺害された。

主な経歴

生年は不詳。

-?年-
この年、董卓の娘婿である中郎将の牛輔の下で校尉を務め、陳留や潁川の諸県の攻略にあたった。

-192年-
4月、董卓が呂布らに殺害される。

5月、賈詡の献策を容れて長安へ向かう。董卓の旧臣だった樊稠・李蒙・王方らと合流。長安城を包囲して10日で陥落させる。

6月、董卓の殺害に関わった者たちを処刑し、王允の屍を市場にさらす。

9月、車騎将軍・池陽侯となり、司隷校尉を兼ねる。また、献帝から節を授けられた。

この年、韓遂(かんすい)と馬騰(ばとう)らが漢(かん)に降伏し、軍勢をひきいて長安に到着。韓遂は鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)に任ぜられて涼州へ帰り、馬騰は征西将軍(せいせいしょうぐん)に任ぜられて郿に駐屯した。

-194年-
?月、侍中(じちゅう)の馬宇(ばう)が、諫議大夫(かんぎたいふ)の种邵(ちゅうしょう)や左中郎将(さちゅうろうしょう)の劉範(りゅうはん)らと計り、馬騰に長安を襲撃させ、自分たちは城内から呼応して李傕らを誅殺しようとした。

3月、馬騰が軍勢をひきいて、長平観(ちょうへいかん)まで来たところで計画が露見。馬宇らは槐里(かいり)へ逃亡。樊稠が馬騰を撃破し、敗れた馬騰は涼州へ逃げ帰った。さらに樊稠は槐里を攻め、馬宇らを敗死させた。

このころ三輔(さんぽ。長安を中心とする地域)は数十万戸を有していたが、李傕らは兵士を遣って略奪を働かせ、街や村を攻略した。そのため民は飢えに苦しみ、2年の間に互いに食らい合うという惨状を呈し、ほとんど死に絶えてしまった。

-195年-
2月、主導権争いから仲間割れを起こし、樊稠を殺害。郭汜とも猜疑し合うようになり、長安の市街で戦闘を繰り広げるに至った。

3月、献帝を人質として軍営に連れ込む。宮殿や城門を焼き払い、役所を攻略。御車や衣服、身の回りの品々をみな奪い取り、自分の屋敷に運び入れた。

公卿を郭汜のもとに遣り、講和を呼びかけたところ、公卿が拘束されてしまう。郭汜との争いはやまず、攻撃し合うことが数か月に及び、1万を超える死者が出た。

5月、大司馬に昇進。

?月、配下の部将の楊奉と軍官の宋果(そうか)らが、李傕の暗殺を計る。事が漏れたため、ふたりは部隊を挙げて反逆。これにより李傕の勢いが衰えた。

6月、陝から来た張済の説得を受け入れ、郭汜と和解。

7月、献帝が長安を離れる。

8月、献帝が新豊(しんぽう)・霸陵(はりょう)の辺りまで到達。

10月、郭汜が献帝を脅して連れ戻し、郿に都を置こうと企む。献帝は楊奉の軍営に逃げ込み、楊奉は郭汜を撃破した。郭汜は終南山(しゅうなんざん)へ逃走。楊奉と将軍の董承(とうしょう)は、献帝を奉じて洛陽へ向かった。

?月、献帝の洛陽行きを認めたことを後悔し、再び郭汜と和解。献帝を追う。

冬、弘農郡の曹陽県で献帝の一行に追いつく。

11月、楊奉が、河東のもと白波賊の頭目である韓暹・胡才・李楽らを、急いで呼び寄せて合流。李傕・郭汜軍との間で大規模な戦闘となる。ここで楊奉らの軍勢を撃破。兵士を放って公卿百官を殺害させると、宮女を略奪して弘農へ乱入した。

12月、献帝が陝に逃走。北へ向かって黄河を渡り、大陽、さらに安邑へと移る。

-196年-
?月、太僕の韓融が勅使として弘農に到着。ここで献帝の和睦要請に応ずる。

6月、献帝が聞喜(ぶんき)に到着。

7月、献帝が洛陽に還幸。

8月、曹操の意向に従い、献帝が許への遷都を決定。

-197年-
?月、曹操の命を受け、謁者僕射の裴茂が関西(かんぜい。函谷関〈かんこくかん〉以西の地域)の諸将を統率し、李傕の討伐に乗り出す。李傕は敗れて処刑され、その三族も皆殺しにされた。

管理人「かぶらがわ」より

李傕らは董卓没後の混乱に乗じ、いったん朝廷の実権を握りましたが、結局は仲間割れから自滅。ベタな荒くれさんたちで、足りないものが多すぎました。

李傕の死について、范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)では198年4月のこととしており、「献帝が謁者の裴茂を遣わし、中郎将の段煨(だんわい)をひきいて李傕の討伐を命じ、李傕とその三族を皆殺しにした」とありました。

李傕の処刑に至るまでの経緯は同じようですが、こうなると197年のことなのか、198年のことなのかはっきりしません。

また、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『献帝起居注(けんていききょちゅう)』には、「李傕が鬼神や妖術の類いを好んだ」という話がありました。

吉川『三国志』(第47話)や『三国志演義』(第13回)では、こういった話もうまく使われています。

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