吉川『三国志』の考察 第047話「巫女(みこ)」

李傕(りかく)が献帝(けんてい)と皇后(伏氏〈ふくし〉)を郿塢城(びうじょう)に閉じ込めると、城外に軍営を置いていた郭汜(かくし)も、和睦を勧めに来た大臣らを捕らえて対抗する。

だが、巫女(みこ)の言葉にばかり耳を傾ける李傕の態度に、配下の将士の間では不満が渦巻いていた――。

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第047話の展開とポイント

(01)郿塢の城外 郭汜の軍営

太尉(たいい)の楊彪(ようひょう)は朝廷の大臣以下60余人とともに郭汜を訪ね、李傕との和睦を勧めた。

しかし郭汜は耳を貸さず、不意に兵に命じ、楊彪らをひとからげに縛る。郭汜としては、献帝と皇后を郿塢城に閉じ込め強みとしている李傕への対抗措置だった。

楊彪が声を荒らげとがめたところ、郭汜は斬り捨てようとする。中郎将(ちゅうろうしょう)の楊密(ようみつ)が諫めたが郭汜は許さず、楊彪と朱雋(しゅしゅん。朱儁)のふたりだけを営外へ追い返した。

老年の朱雋はこの使いでひどく精神的なショックを受け、家に帰ってまもなく血を吐き死んでしまう。柱に自分の頭をぶつけて憤死したのだった。

それから50余日は明けても暮れても、李傕と郭汜の両軍が毎日、巷(ちまた)に兵を出して戦っていた。

(02)郿塢

郿塢城内に幽閉されていた献帝は日夜、涙の乾く間もなく沈んでいた。そこへ侍中郎(じちゅうろう)の楊琦(ようき)がささやき、李傕の謀臣の賈詡(かく)を密かに召すよう勧める。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第13回)では、楊琦は侍中。前の第46話(07)を参照。

その賈詡が幽室(奥まった暗い部屋)に入ってきたとき、皆を退けた献帝は彼の前で再拝し哀れみを乞う。驚いた賈詡は床にひざまずいて頓首(頭を地面に打ちつけて礼をすること)し、時を待つよう伝える。

李傕の周囲には数多くの巫女がおり、みな重く用いられ、絶えず帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)に出入りしていた。

巫女たちは事あるごとに祭壇に向かって祈りを捧げたり、調伏の火を焚いたり神降ろしなどをして怪しげなご宣託を授けていた。李傕は恐ろしく信用し、何をやるにもすぐ巫女を呼び、神さまのお告げを聴いた。

あるとき李傕と同郷の皇甫酈(こうほれき)が訪ねてきて、弁舌をもって彼の罪を鳴らし諫めた。李傕が剣を抜き斬ろうとすると、騎都尉(きとい)の楊奉(ようほう)がなだめて皇甫酈の身柄を預かり、外へ連れ出し解放した。

井波『三国志演義(1)』(第13回)では侍中の胡邈(こばく)を登場させ、李傕を罵り続けた皇甫酈をなだめていた。だが、吉川『三国志』では胡邈を使っていない。

皇甫酈は献帝の頼みで和睦の勧告に来たのだが、失敗に終わったため西涼(せいりょう)へ落ちていった。

その道中で、「大逆無道の李傕は今に天子(てんし。献帝)をも殺しかねない人非人だ」と言い触らした。

井波『三国志演義(1)』(第13回)ではここで李傕が虎賁(こほん)の王昌(おうしょう)を差し向け、皇甫酈を追撃させていた。しかし王昌は彼が忠義の人だと知っていたので追撃しようとせず、行方がわからなくなったと報告しただけだったとある。なお、吉川『三国志』では王昌を使っていない。

密かに献帝に近づいていた賈詡も、暗に世間の悪評を裏書きするようなことを兵士の間にささやき、李傕軍を内部から切り崩した。

謀士の賈詡さえああ言うくらいだから見込みはないと、李傕のもとを脱して他国や郷里へ落ちていく兵が増えだす。夜が明けるたび、目に見えて李傕の兵が減っていった。

賈詡はほくそ笑み、再び献帝に献策。李傕を大司馬(だいしば)に上せて恩賞を下すよう勧める。

李傕は思いがけず大司馬に昇進して有頂天となり、巫女たちに莫大(ばくだい)な褒美を与える一方、将士には何も与えなかった。むしろこのころ、将士は脱走兵が多いことで叱られてばかりいた。

前の第46話(01)の時点では李傕を司馬としていた。ただ相方の郭汜を大将軍(だいしょうぐん)としており、李傕を司馬とすると釣り合いが取れない。

ということで、ここで司馬から大司馬に昇進したようにも受け取れる描き方には違和感があった。なお、井波『三国志演義(1)』(第13回)ではここで李傕を正式に大司馬に任じたとあり、同様の疑問は感じられない。

こうした李傕の態度に配下の宋果(そうか)と楊奉が反乱を決意し、天子を助け出そうと考える。

その夜の二更(午後10時前後)、宋果は中軍から火の手を上げる手はずで、楊奉は外部に兵を伏せていた。

ところが、決めた時刻になっても火の手が上がらない。楊奉が物見を出して探らせると、事が発覚し、宋果は首を刎(は)ねられたことがわかる。

ほどなく李傕の討手が楊奉の陣に殺到。楊奉は四更(午前2時前後)のころまで抗戦したものの散々に打ち負かされる。そして夜明けとともにいずこともなく落ち延びた。

郭汜軍も戦いに疲れていたところ、陝西(せんせい)地方から張済(ちょうさい)が大軍をひきいて仲裁に駆けつけ、李傕と郭汜に和睦を押しつける。

これを拒否すると新手の張済軍に叩きのめされる恐れがあったため、ふたりとも和解に応じた。人質になっていた百官も解放され、献帝も初めて眉を開く。

張済はこのときの功により驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に任ぜられた。

先の第41話(04)で、すでに張済は驃騎将軍に任ぜられていたはず……。ここはどういうことなのかわからなかった。なお井波『三国志演義(1)』(第13回)では、ここで張済を驃騎大将軍(ひょうきだいしょうぐん)に任じたとあった。驃騎将軍に大を付けてもいいのか微妙だが、その分だけ昇進したという意味合いらしい。

驃騎大将軍は范曄(はんよう)の『後漢書』に数多くの用例があり、将軍号として通用することがわかった。(2016/2/18追記)

献帝は張済の勧めに従い、長安(ちょうあん)から弘農(こうのう)へ遷(うつ)ることにした。弘農は旧都の洛陽(らくよう)にも近い。

折しも秋の半ば、献帝と皇后の輦(くるま)は長い戟(げき)をそろえた御林軍(ぎょりんぐん。近衛軍)の残兵に守られ、長安の廃墟(はいきょ)を後にする。これに李傕も付き従った。

(03)行幸中の献帝

覇陵橋(はりょうきょう)を越えた後、華陰県(かいんけん)の辺りで郭汜が軍勢をひきいて追いついてくる。そのとき彼方(かなた)の疎林や丘の陰から1千余騎をひきいた楊奉が現れる。

先ごろ李傕に背き長安から姿を消した楊奉は、その後しばらく終南山(しゅうなんざん)に潜んでいた。そこで天子がこの地を通ると聞き、にわかに手勢をひきいて駆けつけたのだった。

管理人「かぶらがわ」より

李傕の大司馬や張済の驃騎将軍といった官位の絡みで気になるところがありましたが、長安における争いはひとまず終結ですね。

吉川『三国志』の朱雋は何だか冴えませんが、史実では数々の武功を立てた名将で、あの董卓(とうたく)にも屈さなかった人物だったりします。

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