吉川『三国志』の考察 第096話「小児病患者(しょうにびょうかんじゃ)」

曹操(そうそう)は荀彧(じゅんいく)や郭嘉(かくか)の意見を聴き、徐州(じょしゅう)の劉備(りゅうび)討伐に乗り出す。

劉備は曹操軍の動きをつかむと、すぐさま孫乾(そんけん)に書簡を託し、河北(かほく)の袁紹(えんしょう)へ救援を求めた。しかしこのとき袁紹の愛息が――。

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第096話の展開とポイント

(01)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ)

粛清の嵐と血の清掃をひとまず済ませた曹操。翌日には何事もなかったような顔をして、明日への百計にふけっていた。

曹操は、まだ西涼(せいりょう)の馬騰(ばとう)と徐州の劉備が片づいていないと言い、策を尋ねる。

荀彧は、いま許都を手薄にはできないとして、まず甘言をもって馬騰を都へ呼び寄せ、欺いて殺す。次に劉備へも交術を施して鋭気を削ぎ、一面では流言の法を行い、彼と袁紹との間を猜疑(さいぎ)させるのが万全の計だと述べた。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第24回)では、馬騰を都へ誘い込んで倒すよう進言したのは程昱(ていいく)。また徐州の劉備については、簡単に攻撃することができないと述べていた。

曹操は、荀彧の献策が悠長すぎると言い、あくまで先に劉備を討伐したいという態度を見せる。

そこへちょうど郭嘉が入ってきたので、曹操は彼にも意見を聴く。すると郭嘉は、一気に劉備を討伐してしまうに限ると即答。

劉備が徐州を治めて日が浅いこと。そして袁紹配下の部将は一致を欠いており、袁紹自身も優柔不断であるため、神速の兵を動かせるわけがないことを指摘する。

郭嘉の説が自分の志望と合致したので、曹操はたちどころに決心。軍監や参謀から糧食や輸送などの各司令らを一堂に呼び集め、20万の兵を整えて5部隊に分け、3つの道から徐州へ攻め下るよう命じた。

井波『三国志演義(2)』(第24回)では曹操は20万の大軍を動かし、軍勢を5方面に分けて徐州へ向かっていた。

(02)小沛(しょうはい)

徐州に曹操軍の動きが伝わると、いち早く知った孫乾は下邳(かひ)の関羽(かんう)に急を告げ、その足ですぐに劉備のもとへ馬を飛ばす。

劉備は、献帝(けんてい)の血の密詔が露見し、董承(とうじょう)らが殺されたことも併せて知り驚愕(きょうがく)。孫乾は劉備から救援を要請する書簡を預かり、河北の袁紹のもとへ急ぐことになった。

(03)冀州(きしゅう。鄴〈ぎょう〉?)

まず孫乾は袁家の重臣である田豊(でんほう)を訪ね、その斡旋(あっせん)により翌日には袁紹に謁見する。ところが袁紹はひどく憔悴(しょうすい)しており、衣冠も正していなかった。

怪しんだ田豊が尋ねると、かわいがっている五男が疥瘡(かいそう。疥癬虫〈かいせんちゅう〉の寄生で起こる、伝染性のひどくかゆい皮膚病。疥癬)を病み、命も危うい容体なのだという。

井波『三国志演義(2)』(第24回)では、一番下の息子(五男)が疱瘡(ほうそう。天然痘〈てんねんとう〉)にかかり死にかけているとあった。

しばらく用件を言い出せなかった田豊。やがて一転の機を話中につかむと、劉備配下の孫乾が早馬で着き、曹操が大軍をひきい徐州へ向かっていると伝えてきたと告げる。

田豊は手薄な許都を攻めるよう促すが、袁紹は五男の病気が気がかりだと言い、どうしても承知しない。

孫乾が田豊に目顔で合図をしながら退出しようとすると、袁紹は、もし劉備が徐州を捨てるほかなくなった場合は、いつでも冀州を頼ってくるよう伝えてくれと言った。

退出後、田豊は足ずりして長嘆したが、孫乾は馬を求めて挨拶すると、すぐに鞭(むち)を打ち徐州へ引き返す。

管理人「かぶらがわ」より

徐州攻めに動きだす曹操と、愛息の病が気になり動かない袁紹。病のことはともかく、袁紹が動かないのは郭嘉が予想した通りでした。

庶民であれば息子思いの父親ということになるのでしょうが、大国の統治者としては駄目っぽいですね。

なお、この第96話のタイトルに使われている「小児病」は、考えが浅くて極端に走ろうとする、大人らしくもない見解や行動という意味です。

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