172年(〈漢の建寧5年〉→熹平元年)の主な出来事

-172年- 壬子(じんし)
【漢】 (建寧〈けんねい〉5年) → 熹平(きへい)元年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【03月】
壬戌(じんじゅつ)の日(8日)
太傅(たいふ)の胡広(ここう)が死去する。
『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)

【05月】「漢(かん)の改元」
己巳(きし)の日(16日)
霊帝が大赦を行い、「建寧」を「熹平」と改元する。
『後漢書』(霊帝紀)

【05月】
長楽太僕(ちょうらくたいぼく)の侯覧(こうらん)に罪があり、自殺する。
『後漢書』(霊帝紀)

【06月】
洛陽(らくよう)で大雨による被害が出る。
『後漢書』(霊帝紀)

【06月】「竇太后(とうたいこう)の崩御(ほうぎょ)」
癸巳(きし)の日(10日)
竇太后が崩御する。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒?月
竇太后の母が配流先(はいるさき)の比景県(ひけいけん)で亡くなり、竇太后は悲しみのため病気になって崩御した。位にあること7年だった。竇太后は宣陵(せんりょう。桓帝〈かんてい〉の陵)に合葬された。
『後漢書』(竇皇后紀〈とうこうごうぎ〉)

【07月】
甲寅(こういん)の日(2日)
霊帝が桓思竇皇后(かんしとうこうごう)を葬る。
『後漢書』(霊帝紀)

【07月】
宦官(かんがん)が司隷校尉(しれいこうい)の段熲(だんけい)に示唆し、太学生(たいがくせい)1千余人を逮捕させる。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「このときある者が朱雀闕(すざくけつ)に、『天下は大いに乱れているのに、公卿(こうけい)はみな無駄飯食らい』と大書した。このため犯人とおぼしき太学生を逮捕した」という。「この事件については『後漢書』(宦者伝〈かんじゃでん〉)に見える」ともある。

【10月】
勃海王(ぼっかいおう)の劉悝(りゅうかい)が謀反の謗(そし)りを受ける。

丁亥(ていがい)の日(6日)
劉悝が妻子とともに自殺する。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
孫堅(そんけん)が、会稽(かいけい)の妖賊の許昌(きょしょう)とその息子の許韶(きょしょう。許昭)を、州郡の官兵とともに攻め破る。許昌は句章(こうしょう)で反乱を起こし、自ら陽明皇帝(ようめいこうてい)と名乗っていたもの。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝〈そんけんでん〉)

後の174年にも同じような記事が出てくる。この年に許昌の討伐が始まり、174年になって鎮圧されたという意味なのか、イマイチよくわからなかった。

⇒11月
会稽郡の許生(きょせい)が越王(えつおう)を自称し、郡県に侵攻する。揚州刺史(ようしゅうしし)の臧旻(そうびん)と丹陽太守(たんようたいしゅ)の陳夤(ちんいん)が討伐にあたり、これを討ち破った。
『後漢書』(霊帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「許生は『三国志』(孫堅伝)では許昌に作る。息子の許昭に立てられて越王(孫堅伝では陽明皇帝)を名乗り、句章県で挙兵。揚州刺史の臧旻の討伐を受けて敗北した後も抵抗を繰り返したが、3年後に平定された」という。

同じく『全譯後漢書 第2冊』の補注によると、「許昭は『三国志』(孫堅伝)では許詔(司馬昭〈しばしょう〉の諱〈いみな〉を避けたため)に作る。会稽郡の人。父の許生を立てて越王とし、自らは大将軍(だいしょうぐん)を名乗って句章県で挙兵。太守の尹端(いんたん)を討ち破ったが、揚州刺史の臧旻の討伐を受けて敗北。その後も兵を集めて抵抗を続けたが、3年後に平定された」という。

『後漢書』の記事や『全譯後漢書 第2冊』の補注などにより、ここでの疑問はほぼ解決。ただ、許昭が『三国志』では許韶と作られているのか、許詔と作られているのか、揺れがあってよくわからず。許昭を許韶と作る箇所はあったものの、許詔と作る箇所は見つけられなかった。

あと、補注には3年後に平定されたとあったが、この172年も含めて3年、というニュアンスだろうか? 『後漢書』などを見ると、許生が斬られたのは174年のようなので、正確には2年後では?

【12月】
霊帝が、司徒(しと)の許栩(きょく)を罷免し、大鴻臚(だいこうろ)の袁隗(えんかい)を司徒に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
鮮卑(せんぴ)が幷州(へいしゅう)に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、甘陵王(かんりょうおう)の劉恢(りゅうかい)が薨去(こうきょ)した。
『後漢書』(霊帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』の補注では「劉恢は王先謙(おうせんけん)の『後漢書集解(ごかんじょしっかい)』に引く銭大昕(せんたいきん)の指摘によれば劉理(りゅうり)。甘陵王の系譜に劉恢の名がないうえ、甘陵威王(かんりょういおう)の劉理の没年が、この172年にあたるため」という。加えて、理と悝を混同したうえ、悝が恢と同音であること、あるいは草書体の近接性から誤記した可能性を指摘している。

特記事項

「この年(172年)に生まれたとされる人物」
王淩(おうりょう)徐邈(じょばく)魯粛(ろしゅく)

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