255年(魏の正元2年・蜀の延熙18年・呉の五鳳2年)の主な出来事

-255年- 乙亥(いつがい)
【魏】 正元(せいげん)2年 ※高貴郷公(こうききょうこう。曹髦〈そうぼう〉)
【蜀】 延熙(えんき)18年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 五鳳(ごほう)2年 ※会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】「毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)の反乱」
乙丑(いっちゅう)の日(12日)
魏(ぎ)の鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の毌丘倹と揚州刺史(ようしゅうしし)の文欽が、反乱を起こす。

戊寅(ぼいん)の日(25日)
魏の大将軍(だいしょうぐん)の司馬師(しばし)が、毌丘倹と文欽の討伐に向かう。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・高貴郷公紀〈こうききょうこうぎ〉)

⇒01月
魏の鎮東大将軍(ちんとうだいしょうぐん)の毌丘倹と前将軍(ぜんしょうぐん)の文欽が、淮南(わいなん)の軍勢を挙げて魏に背く。ふたりは西方へ進攻し、楽嘉(らくか)で魏軍と交戦した。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫亮伝〈そんりょうでん〉)

⇒01月
魏の毌丘倹と文欽が、寿春(じゅしゅん)で司馬師討伐の兵を起こす。司馬師は、内外の兵をひきいて討伐にあたる。その後、毌丘倹と文欽の軍は敗れ、文欽は呉(ご)に投降し、毌丘倹は土民に殺害された。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【01月】「郭淮(かくわい)の死」
癸未(きび)の日(30日)
魏の車騎将軍(しゃきしょうぐん)の郭淮が死去する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【閏01月】
壬辰(じんしん)の日(9日)
呉の孫峻(そんしゅん)が、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の呂拠(りょきょ)と左将軍(さしょうぐん)の留賛(りゅうさん)とともに、軍をひきいて魏の寿春に向かう。しかし東興(とうこう)まで進んだところで、文欽らが敗れたとの知らせが届いた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【閏01月】
己亥(きがい)の日(16日)
魏の大将軍の司馬師が、楽嘉で文欽の軍を撃破する。文欽は逃走し、そのまま呉に出奔した。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

⇒閏01月
壬寅(じんいん)の日(19日)
呉軍が橐皋(たくこう)まで進むと、文欽が孫峻のもとに投降し、残っていた淮南の軍勢数万も呉に逃亡する。その後、魏の諸葛誕(しょかつたん)が寿春城に入ると、孫峻は軍勢をまとめて引き揚げた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【閏01月】
甲辰(こうしん)の日(21日)
魏の安風津都尉(あんふうしんとい)が毌丘倹を斬殺し、その首を洛陽(らくよう)に送る。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

安風津都尉については名が記されていなかった。

『世語(せいご)』…大将軍(司馬師)は天子(てんし。曹髦)を奉戴し、毌丘倹の征伐に赴いた。項県(こうけん)に着いたとき毌丘倹がすでに敗れ去っていたので、天子は先に還幸した。

裴松之(はいしょうし)の考え…この『世語』の記述について、「諸書を調べたが、どの本にもこうした事実は記されていない」とし、「後(257年)に諸葛誕が反乱を起こしたとき、司馬昭(しばしょう)が初めて皇帝(曹髦)と皇太后(郭氏〈かくし〉)を伴い、行軍したことがあるのみだ」と指摘。

さらに、張璠(ちょうはん)の『後漢紀(ごかんき)』や虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』を評価する一方、郭頒(かくはん)の『魏晋世語(ぎしんせいご。世語)』については、「才能に乏しいうえに口調が悪く、最も愚劣ながら、ときどき変わったことが書いてあるため、かなり世間で読まれている」と酷評している。

そして「干宝(かんぽう。『晋紀〈しんき〉』の撰者)や孫盛(そんせい。『晋陽秋〈しんようしゅう〉』の撰者)らは、『魏晋世語』の叙述から多くのものを採録して『晋書(しんじょ)』を作ったため、その中に噓や誤りが往々にして存在するのである」とも述べている。

【閏01月】
壬子(じんし)の日(29日)
魏の曹髦が、淮南の民のうち毌丘倹と文欽に欺かれ、事件に巻き込まれて罪を犯した者たちに対し特赦を行う。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【閏01月】
魏の曹髦が、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の諸葛誕を鎮東大将軍に任ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【閏01月】「司馬師の死」
魏の大将軍の司馬師が許昌(きょしょう)で死去する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【02月】
丁巳(ていし)の日(5日)
魏の曹髦が、衛将軍(えいしょうぐん)の司馬昭を大将軍・録尚書事(ろくしょうしょじ)に任ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【02月】
甲子(こうし)の日(12日)
呉の孫峻らが、10万と称する軍勢で魏の寿春を攻めたものの、諸葛誕に撃破される。この際、呉の左将軍の留賛が戦死し、呉の捕虜が洛陽に送られた。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

⇒02月
呉軍が、魏の将軍の曹珍(そうちん)と高亭(こうてい)で遭遇し、その軍勢を討ち破る。

その一方で呉の留賛は、魏の諸葛誕の別動隊をひきいた部将の蔣班(しょうはん)に菰陂(こひ)で敗れる。留賛は、将軍の孫楞(そんりょう)や蔣脩(しょうしゅう)らとともに殺害された。
『三国志』(孫亮伝)

【03月】
魏の曹髦が、卞氏(べんし)を皇后に立てたうえ、大赦を行う。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【03月】
呉の孫亮が、鎮南将軍の朱異(しゅい)に命じて魏の安豊(あんぽう)を攻めさせたものの、陥すことはできなかった。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【春】
蜀(しょく)の姜維(きょうい)が成都(せいと)に帰還する。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【04月】
甲寅(こういん)の日(3日)
魏の曹髦が、卞皇后の父の卞隆(べんりゅう)を列侯(れっこう)に封ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【04月】
甲戌(こうじゅつ)の日(23日)
魏の曹髦が、征南大将軍(せいなんだいしょうぐん)の王昶(おうちょう)を驃騎将軍に任ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【07月】
魏の曹髦が、征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の胡遵(こじゅん)を衛将軍に、鎮東大将軍の諸葛誕を征東大将軍に、それぞれ任ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【07月】
呉の将軍の孫儀(そんぎ)・張怡(ちょうい)・林恂(りんじゅん)らが、孫峻の暗殺を企てたものの発覚する。孫儀は自殺し、林恂らは処刑された。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【08月】
辛亥(しんがい)の日(2日)
蜀の大将軍の姜維が、魏の狄道(てきどう)に侵攻する。魏の雍州刺史(ようしゅうしし)の王経(おうけい)は洮西(とうせい)で大敗し、引き返して狄道城を守った。

戊辰(ぼしん)の日(19日)
魏の曹髦が、太尉(たいい)の司馬孚(しばふ)を狄道に遣わし、蜀の姜維に対する魏の後続部隊とする。

この記事は、次の辛未(しんび)の日(22日)の記事の後に置かれていた。しかし戊辰の日(19日)とあるわりには、鄧艾(とうがい)や陳泰(ちんたい)の後続部隊として遣わされたようにも取れる。記事の順番がわかりにくいものの、干支(かんし)の並びは合っている。

辛未の日(22日)
魏の曹髦が、長水校尉(ちょうすいこうい)の鄧艾を行安西将軍(こうあんぜいしょうぐん)に任じ、征西将軍(せいせいしょうぐん)の陳泰と協力して、狄道に侵攻した蜀の姜維を防ぐよう命ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

⇒夏
蜀の姜維が、またも諸軍をひきいて魏の狄道に出撃し、魏の雍州刺史の王経を洮西で大破する。王経は退却して狄道城に立て籠もり、姜維も退いて鍾提(しょうてい。鍾題〈しょうだい〉)に留まった。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【09月】
庚子(こうし)の日(21日)
魏の曹髦が『尚書(しょうしょ)』を学び終え、経典(けいてん)を手に親しく講義にあたった司空(しくう)の鄭沖(ていちゅう)と侍中(じちゅう)の鄭小同(ていしょうどう)らに、それぞれ格差をつけて品物を下賜する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【09月】
甲辰(こうしん)の日(25日)
蜀の大将軍の姜維が、侵攻していた魏の狄道から撤退する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【10月】
魏の曹髦が詔(みことのり)を下し、先の洮西の戦いで戦死したり、蜀の捕虜になった者たちへの心痛を表したうえ、「関連する郡の典農(てんのう)および安夷護軍(あんいごぐん)、撫夷護軍(ぶいごぐん)は、それぞれ所轄の長に割り当てて、これらの家々を慰問させ、賦役(ふえき)を1年間免除するように」と命ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【11月】
甲午(こうご)の日(16日)
魏の曹髦が、隴右(ろうゆう)の4郡(隴西〈ろうせい〉・南安〈なんあん〉・天水〈てんすい〉・広魏〈こうぎ〉)および金城郡(きんじょうぐん)で、連年の敵の侵攻により逃亡したり、賊軍に身を投じた者について、特別に恩赦を与える。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【12月】
癸丑(きちゅう)の日(5日)
魏の曹髦が詔を下し、先の洮西の戦いで戦死した者の遺骨が、原野に放置されたままになっていることへの心痛を表したうえ、「征西将軍(陳泰)と安西将軍(鄧艾)は、それぞれ部下に命じて戦場や船着き場で遺体を捜索させ、これを収容して埋葬し、死者と遺族の心を慰藉(いしゃ。慰謝)せよ」と命ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【12月】
呉の孫亮が太廟(たいびょう。始祖の孫堅〈そんけん〉の廟)を建てる。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

⇒12月
呉の孫亮が、都の建業(けんぎょう)に太廟を建て、孫権(そんけん)を太祖(たいそ)として祭る。
『正史 三国志8』の年表

このときに祭られたのが孫堅なのか、孫権なのか、はっきりしなかった。また、翌256年の『三国志』(呉書・孫亮伝)の裴松之注に引く『呉歴(ごれき)』に「呉の孫亮が孫権の廟を建て、それを太祖廟と呼ぶ」という記事もあり、余計わかりにくい。

【?月】
この年、呉の陽羨(ようせん)の離里山(りりざん。離墨山〈りぼくざん〉)にあった大きな岩が、ひとりでに起ち上がった。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【?月】
この年、呉の孫亮が衛尉(えいい)の馮朝(ふうちょう)に命じ、広陵(こうりょう)に城を築かせた。また、将軍の呉穣(ごじょう)を広陵太守(こうりょうたいしゅ)に、留略(りゅうりゃく)を東海太守(とうかいたいしゅ)に、それぞれ任じた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【?月】
この年、呉はひどい干ばつに見舞われた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【?月】
この年、呉の孫亮が、馮朝を監軍使者(かんぐんししゃ)・督徐州諸軍事(とくじょしゅうしょぐんじ)に任じた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【?月】
この年、呉では民衆が飢え、兵士たちも不満を抱き、その心が呉から離れた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

特記事項

「この年(255年)に亡くなったとされる人物」
郭淮(かくわい)毌丘倹(かんきゅうけん)孫儀(そんぎ)孫楞(そんりょう)孫魯育(そんろいく)傅嘏(ふか)留賛(りゅうさん)

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