254年(〈魏の嘉平6年〉→正元元年・蜀の延熙17年・呉の五鳳元年)の主な出来事

-254年- 甲戌(こうじゅつ)
【魏】 (嘉平〈かへい〉6年) → 正元(せいげん)元年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) → 高貴郷公(こうききょうこう。曹髦〈そうぼう〉)
【蜀】 延熙(えんき)17年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 五鳳(ごほう)元年 ※会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】「呉(ご)の改元」
呉の孫亮が昨年の決定に従い、「建興(けんこう)」を「五鳳」と改元する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【01月】
蜀(しょく)の姜維(きょうい)が成都(せいと)に帰還する。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【?月】
蜀の劉禅が大赦を行う。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【02月】
己丑(きちゅう)の日(1日)
魏(ぎ)の鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の毌丘倹(かんきゅうけん)が、先(253年)の合肥新城(ごうひしんじょう)での戦いにおける、戦士の劉整(りゅうせい)と鄭像(ていしょう)の活躍ぶりを上言する。

これを受けて曹芳は、亡きふたりに関中侯(かんちゅうこう)の爵位を追贈したうえ、兵士の名簿から外させた。さらにその息子たちに爵位を継がせ、部隊長が戦死した際の取り決めに従うよう命じた。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)

【02月】
庚戌(こうじゅつ)の日(22日)
魏の中書令(ちゅうしょれい)の李豊(りほう)が、張皇后(ちょうこうごう)の父で光禄大夫(こうろくたいふ)の張緝(ちょうしゅう)らと結託し、大臣を更迭して太常(たいじょう)の夏侯玄(かこうげん)を大将軍(だいしょうぐん)にしようと企てる。

この計画が露見したため、関係者はことごとく誅殺された。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【02月】
辛亥(しんがい)の日(23日)
魏の曹芳が大赦を行う。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【03月】
魏の曹芳が張皇后を廃位する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【04月】
魏の曹芳が、王氏(おうし)を皇后に立てたうえ、大赦を行う。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【05月】
魏の曹芳が、王皇后の父で奉車都尉(ほうしゃとい)の王夔(おうき)を広明郷侯(こうめいきょうこう)に封じたうえ、光禄大夫・特進(とくしん)に任ずる。また、王夔の妻の田氏(でんし)を宣陽郷君(せんようきょうくん)に封じた。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【06月】
蜀の姜維が軍勢をひきい、またも魏の隴西(ろうせい)に出撃する。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【夏】
呉で洪水が起こる。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫亮伝〈そんりょうでん〉)

【09月】
魏の大将軍の司馬師(しばし)が、曹芳の廃位を企て、その旨を郭太后(かくたいこう)に上奏する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

『世語(せいご)』および『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』…この年(254年)の秋、蜀の姜維が隴右(ろうゆう)に侵入した。このとき許昌(きょしょう)を鎮守していた安東将軍(あんとうしょうぐん)の司馬昭(しばしょう)が、姜維征伐のため召還され、洛陽(らくよう)に到着した。

中領軍(ちゅうりょうぐん)の許允(きょいん)らは、司馬昭が曹芳に挨拶に来たところを殺害し、大将軍の司馬師をも追放しようと企んだ。しかし、司馬昭が参内したとき曹芳がおじけづき、事を起こそうとしなかった。このことが原因で、司馬師は曹芳の廃位を謀ったのである。

裴松之(はいしょうし)の考え…『三国志』(魏書・夏侯玄伝)および『魏略(ぎりゃく)』を参照したところでは、許允は、この年の春に起きた李豊の事件と関係があった。李豊が誅殺された後、許允は鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)として都から転出させられた。

その後、許允は出発しないうちに、官品の管理が放漫だったかどで逮捕され、廷尉(ていい)に引き渡された。許允は楽浪(らくろう)に流刑となったが、その途中で追手に殺害されている。だから許允が、この年の秋に領軍となり、こうした計画を立てることはあり得ないはずである。

【09月】「曹芳の廃位」
甲戌の日(19日)
魏の郭太后が、好色を理由に曹芳の廃位を命ずる。このとき23歳だった曹芳は、斉王として帰藩することになった。
『三国志』(魏書・斉王紀)

『魏書』…司馬師が群臣らとともに、郭太后に曹芳の廃位と、斉への帰藩を求めた上奏について。

『魏略』…司馬師の使いとして郭芝(かくし)が参内し、郭太后に曹芳の廃位に同意するよう迫った話と、郭太后の意見を容れ、彭城王(ほうじょうおう)の曹拠(そうきょ)ではなく、高貴郷公の曹髦を帝位に迎えることにした話。

【09月】
丁丑(ていちゅう)の日(22日)
魏の郭太后が令を下す。「東海王(とうかいおう)の曹霖(そうりん)は高祖文皇帝(こうそぶんこうてい。曹丕〈そうひ〉)の息子であり、その曹霖の息子たちは、帝室と最も近い縁戚にあたる。曹霖の息子で高貴郷公の曹髦には、立派な人物となる器量があるゆえ、彼を明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉)の後継者とする」というもの。
『三国志』(魏書・斉王紀)

『魏書』…高貴郷公(曹髦)を元城(げんじょう)へ迎えに行ったときの話。

『魏世譜(ぎせいふ)』…晋(しん)が魏から禅譲を受けると、斉王の曹芳を邵陵県公(しょうりょうけんこう)に封じた。その後、曹芳は、晋の泰始(たいし)10(274)年に43歳で死去し、厲公(れいこう)と諡(おくりな)された。

【秋】「孫英(そんえい)の死」
呉の呉侯(ごこう)の孫英が、孫峻(そんしゅん)の暗殺を企てたものの、発覚したため自殺する。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【10月】
己丑の日(4日)
魏の曹髦が玄武館(げんぶかん)に到着。群臣は、前殿(ぜんでん)に宿営するよう要請したが、曹髦は、先帝(曹芳)ゆかりの場所だったため遠慮し、西廂(せいそう)に宿を取った。

また群臣は、「法駕(ほうが。天子〈てんし〉の御車〈みくるま〉の一種)にてお出迎えしたい」と申し入れたが、曹髦は許さなかった。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀〈こうききょうこうぎ〉)

【10月】「曹髦の即位」
庚寅(こういん)の日(5日)
魏の曹髦が洛陽(らくよう)に入城。群臣が、西掖門(せいえきもん)の南で出迎えて拝礼したところ、曹髦は輿(くるま)から降りて答拝しようとした。

案内役の者が、「儀礼では答拝しないことになっております」と伝えたものの、曹髦は「私は人臣である」と言い、そのまま答拝を行った。止車門(ししゃもん)まで来ると、曹髦は輿を降りた。

側近の者が、「古くからのしきたりでは、輿に乗ったまま入ることになっております」と伝えると、曹髦は「私は皇太后(郭氏)のお召しを受けたのだ。まだどうなるかわからない」と言い、そのまま徒歩で太極東堂(たいごくとうどう)まで行き、皇太后に目通りした。

曹髦は、その日のうちに太極前殿(たいごくぜんでん)で即位し、席次についている百官はみな喜びに浸った。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』…このときの曹髦の様子。司馬師が鍾会(しょうかい)に、曹髦の資質について尋ねた話。

【10月】「魏の改元」
魏の曹髦が詔を下し、即位にあたっての意気込みを示す。また大赦を行い、「嘉平」を「正元」と改元した。

さらに、車馬・輿・衣服・後宮の経費を削減し、御府(ぎょふ。宮中で使用する衣服などを製作する役所)や尚方(しょうほう。天子の刀剣や器具を製作する役所)の管轄する、各種の職人らが技術を凝らした、華美ながら無益な品物の製作をやめさせた。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

⇒10月
魏の司馬師が、高貴郷公の曹髦を帝位に即ける。このとき14歳。曹髦は「嘉平」を「正元」と改元した。
『正史 三国志8』の年表

【10月】
壬辰(じんしん)の日(7日)
魏の曹髦が、配下の侍中(じちゅう)に節(せつ。使者のしるし)を持たせ、四方に分遣する。これらの者に各地の風俗を観察するよう命じ、士民を慰労し、無実の罪によって失職している者がいないか調査させた。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【10月】
癸巳(きし)の日(8日)
魏の曹髦が、大将軍の司馬師に黄金の鉞(まさかり。軍権の象徴)を貸し与えたうえ、「参内した際に小走りをせず、上奏する際に名前を称さず、剣を帯びたまま上殿してもよい」という特権を与えた。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【10月】
戊戌(ぼじゅつ)の日(13日)
魏の鄴(ぎょう)の井戸の中に黄龍が現れる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【10月】
甲辰(こうしん)の日(19日)
魏の曹髦が、担当官庁に詔を下し、このたびの皇帝廃立における功績の調査を命ずる。その結果を受け、それぞれに格差をつけて、封爵や領地の加増、官位の昇進、下賜品の分配が行われた。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【11月】
彗星(すいせい)が斗宿(としゅく。いて座の中央部。南斗六星〈なんとろくせい〉)と牛宿(ぎゅうしゅく。やぎ座)のあたりに現れる。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【冬】
蜀の姜維が、魏の狄道(てきどう)・河間(かかん)・臨洮(りんとう)の3県を陥落させ、その地の民を蜀の緜竹(めんちく)・繁県(はんけん)の両県に移住させる。
『三国志』(蜀書・後主伝)

⇒06月
蜀の姜維が魏の隴西に出撃し、狄道・河間・臨洮の3県を陥す。この際、張嶷(ちょうぎょく)が戦死した。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)の『三国志』年表

6月に姜維が隴西に出撃したことは、先の『三国志』(蜀書・後主伝)の記事にも見えた。

【?月】
この年、呉の交趾(こうし)で、稗草(ひえ)が稲に変わるという現象が起こった。
『三国志』(呉書・孫亮伝)の裴松之注に引く『江表伝(こうひょうでん)』

特記事項

「この年(254年)に亡くなったとされる人物」
夏侯玄(かこうげん)許允(きょいん)A ※曹芳(そうほう)配下の鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)孫英(そんえい)張嶷(ちょうぎょく)張氏(ちょうし)B? ※曹芳(そうほう)の妻張緝(ちょうしゅう)李豊(りほう)A ※あざなは安国(あんこく)劉靖(りゅうせい)C ※劉馥(りゅうふく)の息子

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