271年(晋の泰始7年・呉の建衡3年)の主な出来事

-271年- 辛卯(しんぼう)
【晋】 泰始(たいし)7年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 建衡(けんこう)3年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
庚戌(こうじゅつ)の日(30日)、晦(かい)
呉(ご)の孫晧が多くの人々を引き連れ、建業(けんぎょう)の西方にある華里(かり)まで行幸する。このとき、孫晧の母である何太后(かたいこう)や妃妾(きさき)たちも随行した。

東観令(とうかんれい)の華覈(かかく)らが必死で引き止めたため、ようやく孫晧は都(建業)へ戻ることに同意した。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)

ここは干支(かんし)を補っておく。

『江表伝(こうひょうでん)』…刁玄(ちょうげん)に孫晧がたぶらかされた話。

⇒01月
呉の孫晧が、「江南(こうなん)の主君が天下を統一するだろう」との讖言(しんげん)を信じ、何太后ほか後宮の数千人をひきいて西方へ向かう。しかし従者たちに不満が広がったため、孫晧は都(建業)に引き返した。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【?月】
この年、呉の虞汜(ぐし)と陶璜(とうこう)が、晋(しん)の交趾(こうし)を攻め破り、晋の部将たちを殺したり捕虜にしたりした。九真(きゅうしん)・日南(にちなん)の両郡は、再び呉に属することとなった。孫晧は大赦を行ったうえ、交趾郡を分割して新昌郡(しんしょうぐん)を設置した。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…晋の霍弋(かくよく)が、交趾の守りに遣わした楊稷(ようしょく)や毛炅(もうけい)らと交わした、「100日降伏」という誓約の話。

『華陽国志(かようこくし)』…楊稷と毛炅について。

⇒07月
呉の薛珝(せつく)・陶璜らが、晋の交趾を攻め陥す。
『正史 三国志8』の年表

⇒07月
呉の虞汜・陶璜らが、晋の交趾を攻め破り、九真・日南の両郡を取り戻す。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【?月】「劉禅(りゅうぜん)の死」
この年、劉禅が、晋の都の洛陽(らくよう)で死去した。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【?月】
この年、呉の部将たちが扶厳(ふげん)を討ち破る。孫晧は、その地に武平郡(ぶへいぐん)を設置した。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【?月】
この年、呉の孫晧が、武昌督(ぶしょうとく)の范慎(はんしん)を太尉(たいい)に任じた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【?月】「丁奉(ていほう)・孟仁(もうじん。孟宗〈もうそう〉)の死」
この年、呉の右大司馬(ゆうだいしば)の丁奉と司空(しくう)の孟仁(孟宗)が死去した。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『呉録(ごろく)』…孟仁(孟宗)について。

『楚国先賢伝(そこくせんけんでん)』…孟仁(孟宗)が初冬の竹林から、母のために筍(タケノコ)を採ってきた際の話。

【?月】「呉の改元(予定)」
この年、呉の孫晧のもとに、「西の御苑(ぎょえん)から鳳凰(ほうおう)がやってきた」との報告が届く。このため孫晧は、翌年から「建衡」を「鳳皇(鳳凰)」と改元することを決めた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【?月】
この年、裴秀(はいしゅう)が死去した(224年~)。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(271年)に亡くなったとされる人物」
薛珝(せつく)丁奉(ていほう)孟仁(もうじん。孟宗〈もうそう〉)劉禅(りゅうぜん)

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