271年(晋の泰始7年・呉の建衡3年)の主な出来事

-271年- 辛卯(しんぼう)
【晋】 泰始(たいし)7年 ※武帝(司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 建衡(けんこう)3年 ※帰命侯(孫晧〈そんこう〉)

月別および季節別の主な出来事

【01月】
丙午(へいご)の日(26日)
晋の皇太子の司馬衷(しばちゅう)が、加冠の儀(成人式)を執り行う。この際、司馬炎は王公以下に差をつけて帛(きぬ)を下賜する。
『晋書』(武帝紀)

【01月】
丙午の日(26日)
匈奴の帥の劉猛(りゅうもう)が晋に背き、長城から出る。
『晋書』(武帝紀)

【01月】
庚戌(こうじゅつ)の日(30日)、晦(かい)
呉の孫晧が多くの人々を引き連れ、建業の西方にある華里まで行幸する。このとき、孫晧の母である何太后(かたいこう)や妃妾(きさき)たちも随行した。

東観令の華覈(かかく)らが必死で引き止めたため、ようやく孫晧は都(建業)へ戻ることに同意した。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

ここは干支(かんし)を補っておく。

『江表伝』…刁玄(ちょうげん)に孫晧がたぶらかされた話。

⇒01月
呉の孫晧が、「江南の主君が天下を統一するだろう」との讖言(しんげん)を信じ、何太后ほか後宮の数千人をひきいて西方へ向かう。しかし、従者たちの間に不満が広がったため、孫晧は都(建業)に引き返した。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【03月】
呉の孫晧が、晋の寿陽を急襲したため、司馬炎が、大司馬の司馬望(しばぼう)を淮北に駐屯させて防ぐ。
『晋書』(武帝紀)

【03月】「裴秀(はいしゅう)の死」
丙戌(へいじゅつ)の日(7日)
晋の司空・鉅鹿公の裴秀が薨去(こうきょ)する。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
癸巳(きし)の日(14日)
晋の司馬炎が、中護軍の王業(おうぎょう)を尚書左僕射(しょうしょさぼくや)に、高陽王の司馬珪(しばけい)を尚書右僕射(しょうしょゆうぼくや)に、それぞれ任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
癸巳の日(14日)
呉の孫秀(そんしゅう)の部将である何崇(かすう)が、5千の軍勢をひきいて晋に来降する。
『晋書』(武帝紀)

昨年(晋の泰始6〈270〉年)12月の『晋書』(武帝紀)に、呉の夏口督・前将軍の孫秀が、軍勢をひきいて晋に来降した記事が見える。

【04月】
晋の九真太守の董元(とうげん)が、呉の将軍の虞汜(ぐし)に攻められる。晋軍が敗れ、董元は戦死した。
『晋書』(武帝紀)

【04月】
北地胡(北地郡の胡族)が晋の金城に侵攻し、涼州刺史の牽弘(けんこう)が討伐にあたる。その後、胡族の内部から離反者が出て、牽弘が青山で包囲される。晋軍が敗れ、牽弘は戦死した。
『晋書』(武帝紀)

【05月】
晋の司馬炎が、皇子の司馬憲(しばけん)を城陽王に封ずる。
『晋書』(武帝紀)

【05月】
晋の雍州・涼州・秦州の3州で飢饉が発生したため、司馬炎は、被災地の死刑以下の罪人を赦免する。
『晋書』(武帝紀)

【閏05月】
晋の司馬炎が、大規模な雨乞いの儀式を行い、(宮中の食事をつかさどる)太官に命じて食膳を減らす。
『晋書』(武帝紀)

【閏05月】
晋の司馬炎が詔を下し、交趾(こうし)の3郡と南中の諸郡について、今年の戸調を供出させないことにする。
『晋書』(武帝紀)

【06月】
晋の司馬炎が詔を下し、公卿以下にそれぞれ1人ずつ将帥を推挙させる。
『晋書』(武帝紀)

【06月】「司馬望の死」
辛丑(しんちゅう)の日(24日)
晋の大司馬・義陽王の司馬望が薨去する。
『晋書』(武帝紀)

【06月】
辛丑の日(24日)
晋がひどい長雨に見舞われ、伊水・洛水・黄河があふれて4千戸余りの家屋が流され、300人余りが亡くなる。司馬炎は詔を下し、被災地の救済や必要な貸し付けを実施し、棺を支給させる。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
癸酉の日(26日)
晋の司馬炎が、車騎将軍の賈充(かじゅう)を都督秦涼二州諸軍事に任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
癸酉の日(26日)
呉の将軍の陶璜(とうこう)らが晋の交趾を包囲し、交趾太守の楊稷(ようしょく)と鬱林太守(うつりんたいしゅ)の毛炅(もうけい)、および日南などの3郡が呉に降伏する。
『晋書』(武帝紀)

⇒?月
この年、呉の虞汜と陶璜が、晋の交趾を攻め破り、晋の部将たちを殺したり捕虜にしたりした。九真・日南の両郡は、再び呉に属することとなった。孫晧は大赦を行ったうえ、交趾郡を分割して新昌郡を設置した。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『漢晋春秋』…晋の霍弋(かくよく)が、交趾の守りに遣わした楊稷や毛炅らと交わした、「100日降伏」という誓約の話。

『華陽国志』…楊稷と毛炅について。

⇒07月
呉の薛珝(せつく)・陶璜らが、晋の交趾を攻め陥す。
『正史 三国志8』の年表

⇒07月
呉の虞汜・陶璜らが、晋の交趾を攻め破り、九真・日南の両郡を取り戻す。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【08月】
丙戌(へいじゅつ)の日(9日)
晋の司馬炎が、征東大将軍の衛瓘(えいかん)を征北大将軍・都督幽州諸軍事に任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【08月】
丙申(へいしん)の日(19日)
晋の城陽王の司馬憲が薨去する。
『晋書』(武帝紀)

【08月】
丙申の日(19日)
晋の司馬炎が、益州から南中の4郡を分けて寧州を設置し、それら4郡における死刑以下の罪人の刑を減免する。
『晋書』(武帝紀)

【10月】
丁丑(ていちゅう)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『晋書』(武帝紀)

【11月】
丁巳(ていし)の日(12日)
晋の衛公の姫署(きしょ)が薨去する。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
晋で大雪が降る。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
晋の司馬炎が、中領軍の官を廃止し、北軍中候に併せる。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
晋の司馬炎が、光禄大夫の鄭袤(ていぼう)を司空に任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【?月】「劉禅(りゅうぜん)の死」
この年、劉禅が、晋の都の洛陽で死去した。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【?月】
この年、呉の部将たちが扶厳(ふげん)を討ち破る。孫晧は、その地に武平郡を設置した。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【?月】
この年、呉の孫晧が、武昌督の范慎(はんしん)を太尉に任じた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【?月】「丁奉(ていほう)・孟仁(もうじん。孟宗〈もうそう〉)の死」
この年、呉の右大司馬の丁奉と司空の孟仁(孟宗)が死去した。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『呉録』…孟仁(孟宗)について。

『楚国先賢伝』…孟仁(孟宗)が初冬の竹林から、母のために筍(タケノコ)を採ってきた際の話。

【?月】「呉の改元(予定)」
この年、呉の孫晧のもとに、「西の御苑から鳳凰がやってきた」との報告が届く。このため孫晧は、翌年から「建衡」を「鳳皇(鳳凰)」と改元することを決めた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

特記事項

「この年(271年)に亡くなったとされる人物」
姫署(きしょ)・牽弘(けんこう)・司馬憲(しばけん)・司馬望(しばぼう)・薛珝(せつく)丁奉(ていほう)・裴秀(はいしゅう)・孟仁(もうじん。孟宗〈もうそう〉)劉禅(りゅうぜん)

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