【姓名】 孟仁(もうじん) 【あざな】 恭武(きょうぶ)
【原籍】 江夏郡(こうかぐん)
【生没】 ?~271年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第113回で初登場。
【正史】 登場人物。
天が認めた篤い孝心
父母ともに不詳。
もともと孟仁は孟宗(もうそう)という名だったが、孫晧(そんこう)のあざなの元宗(げんそう)を避けて孟仁と改めた(時期は不明。孫晧の即位〈264年〉後のはず)。
孟宗は、若いころ南陽(なんよう)の李粛(りしゅく)の下で学問に励む。母は息子のために、分厚い敷布団と大きな掛け布団を作ってやった。
その心を尋ねる者がいると、母は、息子には人を惹(ひ)きつけるほどの徳がないからと謙遜しつつ、学問を志す方々は貧しいことが多いので、大きな布団があれば、そういった同志の方々と仲良くなれるのではないかと応えた。
やがて李粛に才能を認められ、孟宗は驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の朱拠(しゅきょ)の下で小さな役目に就く。
★朱拠が驃騎将軍になったのは246年のこと。
孟宗は母とともに軍営で暮らしたが、小役人の住まいなので雨漏りがひどかった。孟宗は泣いて謝ったが、母はひたすら仕事に励むよう元気づけたという。
そのうち朱拠も孟宗を評価するようになり、監池司馬(かんちしば)に任ずる。
孟宗は役目がら網を使うことができたので、自分で魚を捕り、鮓(さ。なれ寿司)を作って母に送った。
ところが母は鮓を送り返したうえ、養魚場を監督する立場の者が、他人の疑いを招くようなことをしてはいけないとたしなめた。
その後、孟宗は呉県令(ごけんれい)に昇進したが、この任にある間(時期は不明)に母が亡くなる。彼は職務を放棄して葬儀に駆けつけ、式を終えた後で出頭して武昌(ぶしょう)に投獄された。
陸遜(りくそん)は孟宗の孝行ぶりを知っていたため、彼のために命乞いをする。
話を聴いた孫権(そんけん)は死罪を免じたが、今後は同様の事例で減刑しないとも決めたので、勝手に職務を離れて親の葬儀に駆けつける風は絶えたという。
262年、光禄勲(こうろくくん)の孟宗が右御史大夫(ゆうぎょしたいふ)に転ずる。
267年、守丞相(しゅじょうしょう。丞相代行)の孟仁が、太常(たいじょう)の姚信(ようしん)らとともに歩騎2千を従え、孫晧の命を受けて明陵(めいりょう)から孫和(そんか)の魂を迎えに行く。
271年、司空(しくう)の孟仁が死去した。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)および『三国志』(呉書・孫休伝〈そんきゅうでん〉)や『三国志』(呉書・孫晧伝)などによるものです。
また『三国志』(呉書・孫晧伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張方(ちょうほう)の『楚国先賢伝(そこくせんけんでん)』には、孟仁(孟宗)の母にまつわる筍(タケノコ)の逸話がありました。
それによると、孟仁の母は筍が大好物だったそうで――。
ある年の初冬、まだ筍の生える時期ではなかったため、孟仁は竹林に入って嘆き悲しんでいました。
するとなぜか筍が生えてきたので、孟仁は掘り取って母に食べさせることができたのだと。
この話を聞いた人たちはみな、孟仁の篤い孝心に天が感応したのだと言い合った、ということです。
私には母の無茶ぶりじゃないかと思えましたが、これは孝行話なんですよね。確かに上質な筍はおいしいけど……。
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