【姓名】 張嶷(ちょうぎょく) 【あざな】 伯岐(はくき)
【原籍】 巴郡(はぐん)南充国(なんじゅうこく)
【生没】 ?~254年(?歳)
【吉川】 第264話で初登場。
【演義】 第087回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・張嶷伝』あり。
長く南方の統治にあたり、異民族から慕われた名太守(めいたいしゅ)
父母ともに不詳。張瑛(ちょうえい)と張護雄(ちょうごゆう)という息子がいた。
張嶷は身寄りがなく、貧しい家の出ではあったが、若いころから勇敢な気概を持っており、20歳で県の功曹(こうそう)となる。
211年、劉備(りゅうび)が劉璋(りゅうしょう)の要請を受けて蜀へ入り、翌212年には葭萌(かぼう)から反転して劉璋を攻めた。
このころ山賊が県に攻め寄せ、県長は家族を捨てて逃亡。張嶷が白刃を冒して県長の夫人を救出したため名が知られるようになり、州から召されて従事(じゅうじ)に任ぜられた。
巴西郡(はせいぐん)の士人である龔禄(きょうろく)や姚伷(ようちゅう)は二千石(せき)の官位にあり、その名声も高かったが、みな張嶷と親しく付き合ったという。
227年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が漢中(かんちゅう)に進駐した際、広漢(こうかん)や緜竹(めんちく)の山賊の張慕(ちょうぼ)らが軍資を奪い、官民を脅して連れ去る。
張嶷は都尉(とい)として兵をひきい、討伐にあたることになったが、敵は鳥が飛び立つように四散するので、これを戦って捕らえるのは難しいと考えた。
そこで偽りの和睦をし、日時を決めて酒宴を開く。その席で張嶷は、側近とともに張慕ら50余人を斬り、賊の主導者を一掃する。次いで彼らの一味の追跡に移り、10日の間に騒ぎを収めた。
後に張嶷は重病にかかったものの、治療費が出せずに困り果てる。広漢太守の何祗(かし)を頼ったところ、彼が家財を傾けて面倒を見てくれたため、数年のうちに快癒した。
やがて張嶷は牙門将(がもんしょう)に任ぜられ、231年、馬忠(ばちゅう)に付き従って汶山郡(ぶんざんぐん)の羌族(きょうぞく)を討伐。続いて南方の4郡の蛮族を平定し、どちらの戦いでも作戦立案において功があった。
233年、南夷(なんい)の有力者たる劉冑(りゅうちゅう)が背いて諸郡を荒らし回ると、張翼(ちょうよく)に代わって馬忠が庲降都督(らいこうととく)となる。このときも張嶷は馬忠に付き従い、全軍の先頭となって戦い、ついに劉冑を斬った。
別に牂牁郡(そうかぐん)の興古県(こうこけん)で獠族(りょうぞく)が反乱を起こすと、張嶷は馬忠の命を受けて討伐に向かい、降伏した2千人を漢中へ送り届けた。
以前、丞相の諸葛亮が高定(こうてい)を討伐した後、越嶲郡(えっすいぐん)では叟族(そうぞく)が反乱を繰り返し、太守の龔禄や焦璜(しょうこう)を殺害する。
新たな太守は赴任する勇気がなく、郡治の卭都県(きょうとけん)から800余里も離れた安上県(あんじょうけん)に住み、越嶲郡は名目上の存在となっていた。
旧郡の復興を望む声が高まったため、240年、張嶷が越嶲太守に起用される。彼は赴任するや、恩愛と信義をもって蛮族を招くことに努め、多数の帰順者を受け入れた。
このころ国境の北にいる捉馬族(そくばぞく)が最も勇猛で、蜀の統治下に入らなかった。張嶷は部族の指導者である魏狼(ぎろう)を生け捕り、よく説き聞かせたうえで解放し、仲間に帰順を呼びかけさせる。
さらに上表し、魏狼を邑侯(ゆうこう)としてもらい、集落の3千余戸をその地に落ち着かせた。すると、この話を聞いたほかの部族からも降伏者が相次いだという。張嶷は功によって関内侯(かんだいこう)に封ぜられる。
蘇祁(そき)の族長の冬逢(とうほう)と弟の隗渠(かいきょ)らが、いったん降伏した後で再び背く。張嶷は冬逢を誅殺したが、その妻は旄牛王(ぼうぎゅうおう)の娘だったので、考えがあって罰しなかった。一方、隗渠は西方の国境地帯へ逃れる。
隗渠は剛毅かつ精悍(せいかん)で、諸部族に恐れ憚(はばか)られていたが、ふたりの側近を偽って張嶷に降らせ、彼らから蜀側の情報を得ていた。
張嶷はこのことを悟ると、偽降したふたりに重い恩賞を持ちかけ、逆に隗渠側の情報を提供させる。ふたりが共謀して隗渠を殺害すると、諸部族は落ち着きを取り戻した。
また、斯都(しと)の首領の李求承(りきゅうしょう)は、かつて龔禄を殺害した張本人だった。張嶷は懸賞をかけて逮捕し、数々の悪業を糾弾して誅殺した。
当初は郡城が崩壊したままだったので、張嶷は改めて小さな砦(とりで)を造る。
3年後、もとの郡都の卭都に戻ることになり、城郭を修繕したが、このとき蛮族の男女の協力が得られた。
定莋(ていさく)・台登(だいとう)・卑水(ひすい)の3県は郡都から300余里も離れたところにあり、昔から塩・鉄・漆が採れたが、蛮族の住む国境地帯では、彼らがこうした産物を取り込んで使っていた。
張嶷は、これらの産物を取り戻して郡の高官に管理させようと考え、自ら定莋へ赴く。
定莋の首領の狼岑(ろうしん)は槃木王(ばんぼくおう)の舅(しゅうと)にあたり、蛮族の信頼が篤い人物だった。
だが彼は張嶷のやり方に腹を立て、自分から会いに行こうとしない。すると張嶷は数十人の壮士を遣って狼岑を捕らえ、撲殺して遺体を集落へ送り返す。
併せて手厚い恩賞を与え、部族の者に狼岑の悪事を説き、「勝手に動けば皆殺しにする」と言いつける。
これを聞いた部族の者が、みな面縛(両手を後ろ手に縛ること)して謝罪したため、張嶷は宴会を催し、重ねて恩愛と信義を説く。こうして塩と鉄を手に入れると、必要な道具が行き渡るようになった。
それとは別に、漢嘉(かんか)の郡境に旄牛族の4千余戸があり、指導者の狼路(ろうろ)は、姑(おば)の夫にあたる冬逢のあだ討ちをしようとし、叔父の離(り)に冬逢の部下をひきいさせて様子をうかがわせる。
張嶷はこちらから側近を遣り、牛と酒を贈ってねぎらったうえ、先に処罰しなかった冬逢の妻(離の姉)の身を引き取らせ、自分の考えも伝えた。
離は贈り物を受け取り、姉とも再会できたので大いに喜び、部族民をひきいて張嶷のもとへ出向く。張嶷が彼らを手厚くもてなし、恩賞を与えて帰らせたところ、以後、旄牛族は騒動を起こさなくなる。
越嶲郡には古い街道があったが、これは旄牛族の支配地を通って成都(せいと)へ至るもので、平坦かつ近道だった。この街道を旄牛族が遮断してから100余年が経ち、現在は代わりに安上を通っていたが、険阻かつ遠道だった。
そこで張嶷は側近を遣り、狼路に貨幣を贈ったうえ、その姑(冬逢の妻で離の姉)に趣旨を説明する。
狼路が兄弟や妻子を連れて会いに来ると、張嶷は彼との間で誓いを立て、旧街道を開通させた。こうして千里の道筋が再び整備され、かつての宿場も復活した。
張嶷は、狼路を旄牛㽛毗王(ぼうぎゅうこうひおう)に封ずるよう上奏し、狼路に使者を付けて朝貢させた。
これを受けて、劉禅(りゅうぜん)は張嶷に撫戎将軍(ぶじゅうしょうぐん)の官位を加え、これまで通り越嶲太守を兼ねさせた。
254年、張嶷の越嶲在任は15年に及んだが、郡内の平安はよく保たれていた。たびたび彼は帰還の許しを求めており、ようやく成都に向かうことになる。
張嶷の離任を知った蛮民は涙を流して悲しみ、旄牛族の村を過ぎると村長が幼子を背負って出迎え、蜀郡との郡境まで追い慕ってきた。
結局、張嶷に付き従って朝貢した部族の有力者は100余人に上り、張嶷自身は盪寇将軍(とうこうしょうぐん)に任ぜられた。
張嶷は激しい気概を持ち、多くの士人の尊敬を集めたものの、礼を無視した振る舞いが目立ったため非難されることもあったという。
この年、魏(ぎ)の狄道県長(てきどうけんちょう)の李簡(りかん)が、密書をもって蜀に降りたいと伝えてくる。
そこで衛将軍(えいしょうぐん)の姜維(きょうい)は、李簡の管理する軍資を当てにして隴西(ろうせい)に出陣した。このとき張嶷は持病が悪化し、杖を用いてようやく立ち上がれる状態だったが、押して従軍する。
そして狄道に到着後、軍勢を進めて魏将の徐質(じょしつ)と戦った末に陣没した。
それでも張嶷は、味方の戦死者の倍以上の敵兵を討ち取ったという。長男の張瑛が西郷侯(せいきょうこう)に封ぜられ、次男の張護雄が関内侯を継いだ。
張嶷が長く在任した越嶲の蛮民は、その死を知るとみな涙を流して悲しみ、廟(びょう)を建てた。四季ごとに加え、洪水や干ばつのたびにこの廟を祭ったという。
管理人「かぶらがわ」より
張嶷には先を見通す能力があったようで、本伝によると、大将軍(だいしょうぐん)の費禕(ひい)が帰順したばかりの者でも信用しすぎるのを見て、手紙を送って警戒を促しています。
しかし張嶷の忠告もむなしく、253年、費禕は魏の降伏者である郭脩(かくしゅう)に刺殺されてしまいました。
さらに呉(ご)の太傅(たいふ)の諸葛恪(しょかつかく)が、252年の東興(とうこう)における大勝に気を良くし、魏の攻略を急ぐ様子を案じ、彼の従弟にあたる侍中(じちゅう)の諸葛瞻(しょかつせん)に手紙を送り、諸葛恪に忠告するよう勧めています。
ですが諸葛恪も、翌253年に魏の合肥新城(ごうひしんじょう)を攻めて大敗した後、孫峻(そんしゅん)に殺害されてしまいました。
蜀将では、魏や呉との戦いに数多く関わった人のほうが目立ちますけど――。この張嶷を含め、南方の抑えがあってこそ、北方や東方を見ることができたのです。
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