孫礼(そんれい) ※あざなは徳達(とくたつ)

【姓名】 孫礼(そんれい) 【あざな】 徳達(とくたつ)

【原籍】 涿郡(たくぐん)容城県(ようじょうけん)

【生没】 ?~250年(?歳)

【吉川】 第285話で初登場。
【演義】 第095回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・孫礼伝』あり。

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地方官を歴任して治績を上げ、司空(しくう)まで昇る、諡号(しごう)は景侯(けいこう)

父母ともに不詳。孫の孫元(そんげん)は跡継ぎ。

207年、曹操(そうそう)が幽州(ゆうしゅう)を平定すると、孫礼は司空軍謀掾(しくうぐんぼうえん)に取り立てられた。

先の動乱の時代、孫礼の母が行方不明になったことがあり、同郡の馬台(ばい)が捜し当ててくれる。孫礼は彼に感謝し、すべての家財を贈った。

後に馬台が法に触れ、その罪は死刑に該当した。孫礼は密かに馬台を牢獄(ろうごく)から逃がしたうえ、自首して出る。

だが、馬台も逃亡する理由がないと言い、刺奸主簿(しかんしゅぼ)の温恢(おんかい)のもとに出頭した。

温恢は曹操に詳しい事情を説明し、孫礼と馬台とも死刑から減刑された。

後に孫礼は河間郡丞(かかんぐんじょう)に任ぜられ、昇進を重ねて滎陽都尉(けいようとい)となる。

このころ魯山(ろざん)の山中に数百人の盗賊がおり、険阻に拠って住民に被害を与えた。そこで孫礼が魯国相(ろこくしょう)として起用される。

孫礼は着任すると、扶持米(ふちまい)を配って官民を動員した。

そして賊の首に懸賞金をかけ、降伏する者を招き入れ、改めて彼らを山中へ戻して離間させる策を使い、たちまち平定した。

次いで孫礼は山陽太守(さんようたいしゅ)、平原太守(へいげんたいしゅ)、平昌太守(へいしょうたいしゅ)、琅邪太守(ろうやたいしゅ)を歴任する。

228年、孫礼は大司馬(だいしば)の曹休(そうきゅう)に付き従い、呉(ご)討伐のため夾石(きょうせき)へ赴く。

この際、深入りしないよう諫めたものの、曹休に容れられず大敗を喫した。

後に孫礼は陽平太守(ようへいたいしゅ)に転じ、中央へ戻って尚書(しょうしょ)となる。

このころ曹叡(そうえい)は盛んに宮殿を造営したが、天候は不順で、天下に穀物が少なかった。

孫礼は労役をやめるよう強く諫め、曹叡に容れられた。

曹叡が大石山(たいせきざん)に狩猟に出かけた折、御車に虎が走り寄る。孫礼はすぐさま鞭(むち)を投げ捨てて馬から下り、剣を抜き虎を斬ろうとした。

しかし曹叡が、孫礼に馬に乗れと命じたため大事には至らなかった。

239年、曹叡は臨終の際に曹爽(そうそう)を大将軍(だいしょうぐん)としたが、よき補佐役が必要だとも考える。

そこで孫礼に寝台のそばで遺詔を受けさせ、大将軍長史(だいしょうぐんちょうし)に任じ、散騎常侍(さんきじょうじ)の官位を加えた。

孫礼は誠実かつ正直(せいちょく)で妥協することがなかったため、曹爽には都合が悪い。

そうしたこともあり、孫礼は揚州刺史(ようしゅうしし)に任ぜられて(地方へ出され)伏波将軍(ふくはしょうぐん)の称号を加えられ、関内侯(かんだいこう)に封ぜられる。

241年、呉の全琮(ぜんそう)が数万の軍勢で侵攻してきたとき、州兵の多くが休暇を取っており、残っている者はほとんどいなかった。

そこで孫礼は、自ら守備兵を指揮して芍陂(しゃくひ)で戦う。

朝から夕暮れまで戦い続け、将兵の半数が死傷したが、孫礼の奮戦もあり敵軍は退却。詔(みことのり)によって慰労され、絹700匹を賜る。

孫礼は祭祀(さいし)の場を設け、自身も列席して哭(こく。死者に対して大声を上げて泣く礼)し、賜った絹はすべて戦死者の家に分け与えた。

孫礼は召されて少府(しょうふ)に任ぜられた後、地方へ出て荊州刺史(けいしゅうしし)となり、やがて冀州牧(きしゅうぼく)に転ずる。

このころ清河郡(せいかぐん)と平原郡の間で境界争いが起こり、8年を経ても解決をみなかった。

孫礼は、烈祖(れっそ。曹叡)が初めて平原に封ぜられた際の地図を用いれば、座上でも判断が下せると考える。

曹叡は222年に平原王に封ぜられた。

そして地図を手に冀州へ赴くと、調査の結果、平原側の主張を容れるべきだとした。

ところが曹爽は清河側の主張を信じ、地図を用いず、両者の言い分の食い違いについて調べるべきだと述べる。

これに対して孫礼が上奏文を奉り、地図と解釈の文書が存在することを根拠に持論を述べたうえ、(清河郡の)鄃県(ゆけん)が詔を受け入れないのは、自分が軟弱で職務に堪えられないからだとし、自ら放逐の処分を待つ。

曹爽は上奏文を見て激怒し、孫礼が朝廷に恨みを抱いていると弾劾。5年の禁錮刑(きんこけい)に処した。

孫礼は自宅で1年ほど過ごしたが、多くの者が執り成したので城門校尉(じょうもんこうい)として復帰する。

当時、匈奴王(きょうどおう)の劉靖(りゅうせい)が強力な軍勢を擁し、鮮卑族(せんぴぞく)も国境地帯を荒らしていた。

孫礼は幷州刺史(へいしゅうしし)に起用され、振威将軍(しんいしょうぐん)・使持節(しじせつ)・護匈奴中郎将(ごきょうどちゅうろうしょう)の官位が加えられた。

249年1月、司馬懿(しばい)のクーデター(正始〈せいし〉の政変)によって曹爽が処刑されると、孫礼は中央へ戻って司隷校尉(しれいこうい)となり、7つの郡と5つの州を管轄し威信を轟(とどろ)かせた。

ここでいう7つの郡とは、河間・滎陽・山陽・平原・平昌・琅邪・陽平のこと。

同じく5つの州とは、揚州・荊州・冀州・幷州・司州(ししゅう)のこと。

同年12月、孫礼は司空に昇進し、大利亭侯(だいりていこう)に爵位が進む。封邑(ほうゆう)は100戸だった。

翌250年、孫礼が死去すると景侯と諡(おくりな)され、孫の孫元が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、孫礼は盧毓(ろいく)と同郡の出身で年も近かったものの、感情的にうまくいかなかったということです。お互いの人柄には長所と短所があったが、名声や地位はほぼ等しかったとも。

孫礼は数多くの地方官を務めており、実務能力の高さがうかがえます。また、曹爽の意向に逆らって禁錮刑を食らうあたり、確かに正直で妥協しない人物だったようです。

大石山の一件は、吉川『三国志』(第290話)や『三国志演義』(第98回)でも採り上げられており、そこでは孫礼が虎を殺して曹叡を危機から救ったことになっています。

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