279年(晋の咸寧5年・呉の天紀3年)の主な出来事

-279年- 己亥(きがい)
【晋】 咸寧(かんねい)5年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 天紀(てんき)3年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉)

月別および季節別の主な出来事

【01月】
鮮卑(せんぴ)の樹機能(じゅきのう)が晋(しん)の涼州(りょうしゅう)を攻略する。
『参考年表』

【夏】
呉(ご)の郭馬(かくば)が反乱を起こす。郭馬は、もともと合浦太守(ごうほたいしゅ)の脩允(しゅういん)配下の私兵の隊長だった。

この脩允が死去すると、配下にいた兵士たちは別々の部署に配属されることになった。郭馬たちは父祖以来ひとつの軍団をなしてきたので、みなが離ればなれになることを望まなかった。

ちょうどこのころ、孫晧は広州(こうしゅう)の戸籍を正確に調べて課税しようと考えた。

郭馬は、私兵内の部将であった何典(かてん)・王族(おうぞく)・呉述(ごじゅつ)・殷興(いんこう)らと共謀し、その計画に乗じて兵士や民の不安を煽(あお)り動揺させ、人数を集めて広州督(こうしゅうとく)の虞授(ぐじゅ)を攻め殺した。

郭馬は勝手に「都督交広二州諸軍事(ととくこうこうにしゅうしょぐんじ)・安南将軍(あんなんしょうぐん)」と号し、殷興は「広州刺史(こうしゅうのしし)」と、呉述は「南海太守(なんかいのたいしゅ)」と、それぞれ号した。

何典は蒼梧郡(そうごぐん)へ兵を進め、王族は始興郡(しこうぐん)へ兵を進めた。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)

『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…呉が滅亡するという予言について。

⇒08月
呉の孫晧が、軍師(ぐんし)の張悌(ちょうてい)を「丞相(じょうしょう)」に、牛渚都督(ぎゅうしょととく)の何植(かしょく)を「司徒(しと)」に、それぞれ任ずる。

さらに、執金吾(しつきんご)の滕循(とうじゅん)が「司空(しくう)」に任ぜられることになったものの、その任命前に「鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)・仮節(かせつ)・領広州牧(りょうこうしゅうぼく)」に職を改められた。こうして滕循は1万の兵をひきい、東から郭馬の討伐に向かうことになった。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

⇒夏
呉の桂林太守(けいりんたいしゅ)の脩允が死去したあと、その部下だった郭馬が反乱を起こし、蒼梧・始興などの郡を攻める。呉の孫晧は滕循を討伐に差し向けた。
『参考年表』

脩允の肩書についてここでは「桂林太守」とあり、先の『三国志』(呉書・孫晧伝)にある「合浦太守」とは異なっているようだ。

【秋】
呉の滕循が、始興で王族の軍勢と遭遇したため先に進めなくなる。そのうちに郭馬は南海太守の劉略(りゅうりゃく)を殺害し、広州刺史の徐旗(じょき)を追い払った。

そこで孫晧はさらに徐陵督(じょりょうとく)の陶濬(とうしゅん)を遣わし、7千の兵をひきいて西の道を取らせた。

また交州牧(こうしゅうぼく)の陶璜(とうこう)には、配下に加え合浦や鬱林(うつりん)などの諸郡の兵をまとめてひきいるように命じ、東西から向かった両軍に共同で郭馬を攻めさせた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【秋】
呉の孫晧が、工匠(こうしょう)の黄耇(こうこう)を「侍芝郎(じしろう)」に、同じく工匠の呉平(ごへい)を「平虜郎(へいりょろう)」に、それぞれ任じ、銀印青綬(ぎんいんせいじゅ)を授ける。

黄耇の家に生えた「鬼目菜(きもくさい)」が「芝草(しそう。霊芝〈レイシ〉)」と、呉平の家に生えた「買菜(ばいさい)」が「平虜草(へいりょそう。虜〈あだ〉を平らげる草)」と、それぞれ鑑定されたことによるもの。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【冬】 「晋の大攻勢」
晋の司馬炎が、鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の司馬伷(しばちゅう)に涂中(とちゅう)への進軍を命ずる。

また、安東将軍(あんとうしょうぐん)の王渾(おうこん)と揚州刺史(ようしゅうしし)の周浚(しゅうしゅん)には牛渚(ぎゅうしょ)へ、建威将軍(けんいしょうぐん)の王戎(おうじゅう)には武昌(ぶしょう)へ、平南将軍(へいなんしょうぐん)の胡奮(こふん)には夏口(かこう)へ、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の杜預(とよ)には江陵(こうりょう)へ、それぞれ進軍するように命じた。

「杜預」については慣例として「どよ」と読まれるとのこと。

さらに、龍驤将軍(りょうじょうしょうぐん)の王濬(おうしゅん)と広武将軍(こうぶしょうぐん)の唐彬(とうひん)には軍船をひきいて長江(ちょうこう)を下るよう命じた。

この際、司馬炎は太尉(たいい)の賈充(かじゅう)を「大都督(だいととく)」に任じたうえ、「情勢を見ながら最も重要な場所を見極め、全軍の中心となって取りまとめにあたるように」と命じた。

呉の陶濬は郭馬征伐のため武昌まで来たところだったが、北方の晋軍が大挙して押し寄せてきたと聞くと武昌に軍勢を留め、広州へは向かわなかった。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

⇒11月
晋の司馬炎が大動員をかけ、呉への攻撃を命ずる。司馬伷が涂中に、王渾が江西(こうせい)に、王戎が武昌に、胡奮が夏口に、杜預が江陵に、それぞれ軍を進め、王濬と唐彬は巴蜀(はしょく)の兵をひきいて長江を下った。このとき賈充が総指揮を執った。
『参考年表』

【12月】
晋の馬隆(ばりゅう)が鮮卑の樹機能を討伐し、涼州を平定する。
『参考年表』

【?月】
元来、呉の孫晧が群臣を集めて宴を催すときには、いつもみなが酔いつぶれるまで飲ませていた。その際には黄門郎(こうもんろう)から10人を選び、彼らだけ酒を与えず、ずっとそばに立たせておき過失を取り締まる役とした。

宴が果てたあとで群臣の失態を余さず上奏させ、すべて摘発した。大きな過失を犯した者は即座に厳刑に処し、小さな過失であっても必ず罰を与えた。

また、後宮(こうきゅう)にはすでに数千人もの女性がいたが、孫晧は新しい宮女を入れ続けた。宮中に川を引き入れ、意に沿わない宮女がいるとみな殺して川に流した。人の顔の皮を剝いだり目をえぐったりもした。

岑昬(しんこん)はずる賢く立ち回り、孫晧の寵愛を受け九卿(きゅうけい)の位にまで昇った。岑昬は土木工事を起こすことを好み、民を労役に駆り出したので人々はひどく苦しんだ。こういったこともあって上下の人心が離れ、誰も孫晧のために力を尽くさなくなった。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

裴松之注(はいしょうしちゅう)…呉の滅亡後、晋の侍中(じちゅう)の庾峻(ゆしゅん)らが孫晧配下の侍中だった李仁(りじん)に、孫晧が行ったという残虐な行為について尋ねた話。

この(「孫晧伝の」)記事については孫晧の日ごろの行いをまとめたものらしく、ここで持ち出されたことには違和感もあった。

スポンサーリンク

おすすめ記事(広告を含む)

【この記事をシェアする】

【更新情報をフォローする】