209年(漢の建安14年)の主な出来事

-209年- 己丑(きちゅう)
【漢】 建安(けんあん)14年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【03月】
曹操(そうそう)が、軍をひきいて譙(しょう)に到着する。ここで脚の速い船を造らせて水軍を訓練した。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

【07月】
曹操が、渦水(かすい)から淮水(わいすい)に入り、肥水(ひすい)に出て合肥(ごうひ)に陣取る。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
辛未(しんび)の日(?日)
曹操が布告を出す。「最近の征討により、官吏や士卒の戦死者を出した家で、生活の基礎となる財産を持たず、自活できない者に対して、県官(県の役人)は官倉からの給付を絶つことのないように。長吏(ちょうり。県令〈けんれい〉や県長〈けんちょう〉)は面倒を見ていたわってやるように」というもの。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
曹操が、揚州(ようしゅう)の郡県に長吏を配置し、芍陂(しゃくひ)に屯田(民屯)を開設する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒07月
曹操が、芍陂に屯田を開き、張遼(ちょうりょう)に合肥の守備を命ずる。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

⇒?月
曹操配下の張遼が、廬江(ろこう)の陳蘭(ちんらん)・梅成(ばいせい)の反乱を鎮定する。張遼・楽進(がくしん)・李典(りてん)らは、7千の兵で合肥を守った。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【?月】
孫権(そんけん)が合肥から軍を退く。
『正史 三国志8』の年表

【?月】「孫氏(そんし)の輿(こし)入れ」
孫権が、妹を劉備(りゅうび)に嫁がせる。
『正史 三国志8』の年表

【10月】
荊州(けいしゅう)で地震が起こる。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

【12月】
曹操が、軍をひきいて譙に帰還する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
この年、孫権配下の周瑜(しゅうゆ)と曹操配下の曹仁(そうじん)が、南郡(なんぐん)で対峙(たいじ)して1年を越える。その間に死傷した者は多数に上ったが、ついに曹仁は城を捨てて逃走した。孫権は、周瑜を南郡太守(なんぐんたいしゅ)に任じた。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【?月】
この年、劉備の上表により、孫権が行車騎将軍(こうしゃきしょうぐん。車騎将軍代理)に任ぜられ、徐州牧(じょしゅうぼく)を兼任することになる。劉備は荊州牧(けいしゅうぼく)として、公安(こうあん)に軍勢を留めていた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると、「『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』に『(武陵郡〈ぶりょうぐん〉の孱陵県〈せんりょうけん〉は)劉備が荊州にいたとき本拠地とした場所で、改めて公安と呼んだ』とある」という。

【?月】
この年、伏皇后(ふくこうごう)の父の伏完(ふくかん)が死去し、息子の伏典(ふくてん)が跡を継いだ。
『後漢書』(伏皇后紀〈ふくこうごうぎ〉)

【?月】
この年、荀悦(じゅんえつ)が死去した(148年~)。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(209年)に亡くなったとされる人物」
甘氏(かんし)?史渙(しかん)李通(りとう)A ※あざなは文達(ぶんたつ)

「この年(209年)に生まれたとされる人物」
夏侯玄(かこうげん)孫登(そんとう)B ※孫権(そんけん)の息子傅嘏(ふか)

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