185年(漢の中平2年)の主な出来事

-185年- 乙丑(いっちゅう)
【漢】 中平(ちゅうへい)2年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
疫病が流行する。
『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【01月】
琅邪王(ろうやおう)の劉據(りゅうきょ)が薨去(こうきょ)する。
『後漢書』(霊帝紀)

【02月】
己酉(きゆう)の日(10日)
洛陽(らくよう)の南宮で大規模な火災が起こり、鎮火まで半月もかかる。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「『続漢書(しょくかんじょ)』(五行志〈ごぎょうし〉)に、『このとき霊台殿(れいだいでん)・楽成殿(らくせいでん)を焼き、延焼して北闕(ほっけつ)および道を渡って西に向かい、嘉徳殿(かとくでん)・和驩殿(かかんでん)を焼いた』とある」という。

【02月】
癸亥(きがい)の日(24日)
広陽門(こうようもん)の外屋が自然に壊れる。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「広陽門は洛陽城の西面南頭の門である」という。

【02月】
霊帝が、全国の田地から1畝(ぽ)ごとに10銭を税として徴収する。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「(田地に課税した)この金で宮室を修繕した」という。

【02月】
黒山(こくざん)の賊である張牛角(ちょうぎゅうかく)ら十数名の頭目が一斉に蜂起し、至るところで略奪を働く。
『後漢書』(霊帝紀)

【02月】
霊帝が、司徒(しと)の袁隗(えんかい)を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
霊帝が、廷尉(ていい)の崔烈(さいれつ)を司徒に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「崔烈は涿郡(たくぐん)安平(あんぺい)の人。冀州(きしゅう)の名士として高く評価されていたが、司徒に就任するにあたって霊帝に銭を納めたため、『銅臭』と蔑まれた」という。

【03月】
北宮伯玉(ほくきゅうはくぎょく)らが三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)に侵攻する。霊帝は、左車騎将軍(さしゃきしょうぐん)の皇甫嵩(こうほすう)を遣わして討伐にあたらせたものの、勝つことができなかった。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
庚戌(こうじゅつ)の日(12日)
大風が吹き、雹(ひょう)も降る。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【05月】
霊帝が、太尉(たいい)の鄧盛(とうせい)を罷免し、太僕(たいぼく)の張延(ちょうえん)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【07月】
三輔で螟(ズイムシ)が発生する。
『後漢書』(霊帝紀)

【07月】
霊帝が、左車騎将軍の皇甫嵩を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【08月】
霊帝が、司空(しくう)の張温(ちょうおん)を車騎将軍に任じ、北宮伯玉の討伐を命ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【09月】
霊帝が、特進侯(とくしんこう)の楊賜(ようし)を司空に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
庚寅(こういん)の日(?日)
司空の楊賜が死去する。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
霊帝が、光禄大夫(こうろくたいふ)の許相(きょしょう)を司空に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
前の司徒である陳耽(ちんたん)と諫議大夫(かんぎたいふ)の劉陶(りゅうとう)が、直言の罪により投獄されて獄死する。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒?月
劉陶が、「天下混乱の原因は宦官(かんがん)にあります」と上言したため獄死する。また、陳耽も宦官に陥れられて獄死した。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【11月】
張温が美陽県(びようけん)で北宮伯玉を討ち破る。霊帝は盪寇将軍(とうこうしょうぐん)の周慎(しゅうしん)に追撃を命じ、楡中県(ゆちゅうけん)を包囲させたうえ、さらに中郎将(ちゅうろうしょう)の董卓(とうたく)に先零羌(せんれいきょう)の討伐を命ずる。しかし、周慎・董卓とも勝つことができなかった。
『後漢書』(霊帝紀)

【11月】
鮮卑(せんぴ)が、幽州(ゆうしゅう)・幷州(へいしゅう)の両州に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、霊帝が、西園(せいえん)に万金堂(まんきんどう)を建てた。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、洛陽の民が子を産んだところ、頭がふたつで腕が4本あった。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、霊帝が、(丹陽郡〈たんようぐん〉の故鄣〈こしょう〉)県の南側を分割して安吉県(あんきつけん)を設置した。
『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)に引く『呉興記(ごこうき)』

同じく『呉興記』によると「光和(こうわ)年間(178~184年)の末に張角(ちょうかく)が反乱を起こしたが、この郷(県の管轄下に置かれた行政区画の単位)は険しい地勢を守り、国を助けた。漢(かん)はこのことを喜ばしく思い、そのために県を立てた。中平2(185)年には、これをさらに分割して原郷県(げんきょうけん)を立てた」という。

【?月】
この年、王祥(おうしょう)が生まれた(~269年)。
『正史 三国志8』の年表

『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表では、中平元(184)年の生まれだとあった。

特記事項

この年は特になし。

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